アニメ業界ウォッチング第16回:東映、ジブリ、タツノコプロ……社員監督になるまでの、挫折と再起の日々 中村健治監督インタビュー

「モノノ怪」(2007年)、「C」(2011年)、「つり球」(2012年)、「ガッチャマン クラウズ」(2013年)シリーズで知られる中村健治監督は、岐阜県出身。現在は、タツノコプロの社員監督だ。何度もの挫折を経てきた中村監督の数奇なアニメ人生を振り返りつつ、「社員監督」という珍しい立ち位置について、お話をうかがった。


会社の向かいに「代アニ」ができた


──もともと、アニメーションには興味はあったのですか?

中村 高校時代は、めちゃくちゃ見てました。アニメと小説を狂ったように吸収していて、偏差値の落ち方がすごかったんです。小説は、SFやジュブナイルを3日に1冊ぐらいのペースで読んでいましたし、アニメもレンタル屋に並んでいるものは、ほぼぜんぶ借りて見るぐらい。似たような連中とオタクトークしている時間が、とても楽しかった。だから、目に見えて落ちこぼれていって、高校三年のころには赤点ばかりで、当たり前のように補習を受けていました。

──アニメ業界に入る前、異業種のサラリーマンだったそうですが?

中村 そうです。アニメとはまったく関係のない、小さな広告代理店に就職しました。学生さんを面接して、家庭教師を探している方とマッチングさせるのが、僕の主な業務でした。毎日、自分の20~30年後を考えながら働いていましたが、変わらない日常に対する閉塞感があって……。頭の上に板があって、こんこん当たっているような感じなんです。さりとて、ほかになりたい職業もない……そんな自分に対するガッカリ感も、ありましたね。


──そんな状態から、どうやってアニメの世界へ移ったんですか?

中村 この話をすると、「できすぎてるよ」と信じてもらえないんですけど――。僕の会社は、名古屋駅前にあったんです。会社の窓から見えるビルが工事中で、ずっと青いビニールがかかっていました。弁当を食べながら「何のビルができるんだろう?」と思って見ていたら、目の前で、ビニールがパーッとはがされたんです。そこには「代々木アニメーション学院」と書かれていました。その瞬間、稲妻が落ちたように「俺、アニメやろう!」と思い立ちました。それまでは、「アニメは、見るのはいいけど、作る側になるのは絶対にイヤだな」と思っていたんです。給料安い、苦しい、汚い、貧乏くさい……それを避けて、普通のサラリーマンになったはずなのに、毎日がツラい。だから、アニメの世界に逃避したようなものですね。翌日には辞表を出して、その足で代々木アニメーション学院に向かいました。職員室で「願書をください」と言ったら、当時の僕はそこそこ高いスーツを着ていたので、「弟さんのですか?」と聞きかえされました。「いえ、僕のです!」と大声で言ったら、職員室がざわめいたのを覚えています。

 だけど、親は「アニメって、ようするにマンガでしょ?」と頭を抱えていました。「アニメ雑誌なんて、買いあたえるんじゃなかった!」って。



“アニメ・リア充”を経て、26歳で業界入り


──代々木アニメーション学院では、何を習っていたんですか?

中村 アニメーター課に入って、動画や原画の練習をしていました。それまで学校を面白いと思ったことはなかったんですけど、代アニ時代はバラ色でした。先生も生徒も、アニメの話しかしませんから。女の子の「やおい本を描いている」話も楽しくて、「何がいいのか教えて!」というノリで、“アニメ・リア充”を満喫していましたね。

──代アニを卒業してから、動画マンになったわけですか?

中村 そうなんですけど、動画をはじめて、3か月で腱鞘炎になってしまいました。26歳でアニメ業界に入ると、同い年の人たちはキャラクターデザイナーだったり作画監督だったり、下手をすると監督になっていたりするわけです。落ちこぼれ感があって焦っていましたから、腱鞘炎になったあとも、無理して描きつづけてしまったんです。それで肘から先が動かなくなってしまい、仕方なく動画マンはやめました。


──アニメそのものをやめようとは考えませんでしたか?

中村 いえ、一緒に上京した子たちが頑張っていたので、それが励みになりました。「制作進行をやらないか?」という話が来たので、免許も持っていましたし、「やります!」と手をあげました。すると、制作進行の仕事が面白かったんです。それまでは机の上でしか仕事してなかったのに、監督さんにも編集さんにも会えるし、アフレコにも行ける。アニメ制作、フルコース。納期はキツいし風呂には入れずとも、車の後ろで寝て、起きたらすぐ仕事するぐらい、ハマっていました。仕事していくうちに気になってきたことがあって、アニメーターの人たちは基本的に、フリーランスなんです。彼らの仕事を安定させるには、大きな会社から仕事を請けて、僕が制作進行として、しっかり回していかないといけない。そんなことを考えているとき、東映アニメーションさんから、仕事の依頼がきたんです。この話は逃がすまいと、くらいつきましたね。

東映との仕事が、また楽しかったんです。それまでの仕事は、たんに納期に間に合えば良かった。ところが、当時の東映は「ドラゴンボール」など、きらびやかな作品をつくりながら、「この作品はどうすればよくなるか」「このカットはどこが悪いのか」と、熱い議論が交わしていたんです。それから東映にいりびたるようになって、床で仕事していました。初めて机をもらえたときは、机に頬ずりしてしまったぐらいです。僕は「金田一少年の事件簿」のスタッフルームに出入りしていたのですが、全国区で放映されるでしょう。「何やってるのかと思っていけど、ちゃんとやってるんだね」と、ようやく親に認めてもらえました。

──その後、制作進行から、演出へ進んだわけですよね?

中村 ええ、それがまた、棚からボタモチだったんです。いい感じに、演出助手がひとり、行方不明になったんです。

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