【懐かしアニメ回顧録第17回】「機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編」をつらぬく、重力と無重力の対比

OVAとして発表された「機動戦士ガンダムUC」が、TVアニメ「機動戦士ガンダムユニコーン RE:0096」として放送開始された。

今回は、宇宙世紀を舞台とした「ガンダム」作品のルーツを振り返る意味もこめて、劇場版「機動戦士ガンダム」3部作をピックアップしてみよう。この3部作はテレビ版43話を再構成したもので、第1作「機動戦士ガンダム」(1981年)は地球に降りたホワイトベースがガルマ・ザビを倒して、ランバ・ラルと交戦するまで。第2作「機動戦士ガンダムII 哀・戦士編」(1981年)はホワイトベースが地球を出航して、再び宇宙へ向かうところで終わっている。

そして、第3作「機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙(そら)編」(1982年)は、タイトルどおり、宇宙が舞台だ。その「めぐりあい宇宙編」の無重力演出に着目してみよう。


ジオンと連邦、戦艦のブリッジで浮いているのはどっち?


「めぐりあい宇宙編」は、地球から旅立ったばかりのホワイトベースが、宿敵シャアの乗る巡洋艦ザンジバルの追尾を振り切り、キャメル・パトロール艦隊を殲滅するシーンから始まる。

ここで注意を引くのは、艦内の無重力描写だ。セイラとスレッガーは、ホワイトベースのブリッジから、ふわふわ浮いたままエレベーターへ向かう。対するシャアは、ザンジバルのブリッジで椅子に座っており、モニターの前まで歩いて移動する。コツコツと冷たい足音が聞こえ、ホワイトベースの艦内とは、まったく雰囲気が異なる。

無重力をふわふわ浮かんでいるキャラクターたちと、靴音を響かせて歩くキャラクターたち……どちらに、感情移入できるだろうか? 浮かんでいるシーンの多いキャラクターにはやわらかい、平和な雰囲気を感じないだろうか。注意してみると、ジオン側のキャラクターが浮遊して移動するシーンは、数えるほどだ。いっぽう、ホワイトベースの艦内ではセイラとスレッガー以外でもアムロ、ミライ、カイ、ハヤト、カツ・レツ・キッカら、ほとんどの主要キャラクターが浮かんでいる。

つまり、「浮かんで移動する=やわらかい、平和的なイメージ」を与えられているのはホワイトベース側のみで、ジオン側は無重力のエリアでも「座っている」「靴音を響かせて歩く」描写が多く、あえて感情移入しづらく演出しているようだ。


サイド6の無重力エリアで「人を殴る」シーンの演出効果


「スペースコロニーの中心ブロックは、重さを感じることのない無重力帯である。エレベーターは3000メートルあまりを降りて、重さを感じることのできる人工の地上へと着く」。ホワイトベースが、中立コロニー・サイド6に入港したシーンで流れるナレーションだ。サイド6のシーンでは、「無重力感」が、効果的に使われる。

スレッガー中尉は、ミライと彼女の婚約者カムランの間に割ってはいり、カムランを殴る。場所はドッキング・ベイ(中心ブロック)なので、スレッガーはふわりと浮かんで現れ、殴られたカムランも、ゆっくり後ろに飛ばされる。無重力によって「殴る」アクションがやわらかくなり、暴力性が薄まっているのだ。スレッガーがメガネを浮かせたままカムランに返す芝居には、ユーモアさえ漂っている。

さらにスレッガーは、停泊中のホワイトベースのブリッジで、カムランの申し出を固辞するミライを殴る。ここでもスレッガーはぷかぷかと浮いて移動し、ミライに謝って去るときも、ふわりと床から浮く。やはり、柔和な印象のシーンになっている。

では、重力のある場所、すなわちサイド6の地上では、何が起きるのだろうか?

アムロはサイド6で父親と再会し、ララァと運命的な出会いをする。ララァは雨の中、力つきて湖面に「落ちる」白鳥を見ている。また、アムロに見放された彼の父親は、階段を「転げ落ちて」死ぬ。つまり、重力にしばられた地上の世界では、どこか不吉な出来事がおきる。

重力から離れ、宙に浮かんでいる状態は自由で解放的。重力の生じている場所は、決して平和ではない――そのようなルールが「ガンダム」の世界を包んでいるとしたら? アムロとララァが語り合うシーンで、2人が地面のない空間に浮いている理由も、見えてくる気がしないだろうか。


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(文/廣田恵介)

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