【犬も歩けばアニメに当たる。第22回】映画「聲の形」心がざわめいて、少し泣いて少し人にやさしくなれる映画

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映画「聲の形」の原作は、「週刊少年マガジン」に連載された、大今良時によるコミックです。耳が不自由な少女とガキ大将だった少年を中心に、懸命に生きる姿と痛々しい心のぶつけあいを描き、読み切り掲載当初から大きな反響を呼び、「このマンガがすごい!2015」(宝島社刊)オトコ編第1位、第19回「手塚治虫文化賞」新生賞を受賞しました。

難しいテーマを扱う本作をアニメ映画化したのは、「映画けいおん!」「たまこラブストーリー」を世に送り出した京都アニメーションと、山田尚子監督をはじめとするスタッフ。重いテーマとまっすぐに向き合い、繊細な描写でていねにすくいあげた珠玉の一作になりました。

今回、原作コミックを読んだうえでこの映画を見た立場から、作品の魅力をお伝えします。


まるでドキュメンタリー? リアルで静謐な緊迫感の積み重ね


小学校で自由に暴れまわるガキ大将、石田将也(いしだしょうや)の前に、耳の聴こえない少女、西宮硝子(にしみやしょうこ)が転校生として現れた。将也にとって硝子は、まるで不思議でおもしろい異星人のよう。だが硝子はやがて学校に来なくなり、その原因を作ったとして、将也は学級で孤立する。時が流れて、高校生になった将也は硝子と再会することになる。

言葉はすれちがい、もどかしい思いがつのる。気持ちをぶつけても、期待する結果が得られるとは限らない。自分が自分である限り、この状況から抜け出せないのか? こんな自分が誰かのためにできることって、何かあるのだろうか?

コミック全7巻にわたる内容を、この映画では、主人公・石田将也の視点から徹底して描いている。

そのため、必ずしも観客に親切ではない部分もある。まるでドキュメンタリーのように、説明なしにカメラが切り替わったりもする。けれど、それが味わいとして成立している。

荒削りでいて的確なスケッチのように、起こった出来事を描写してつないでいくことで、情景を描き出す。叙情的に流れすぎない音楽と映像の共同作業が素晴らしい。

いつでも感情は宙ぶらりん。予定調和のダイナミックな波に乗って疾走するような爽快感はない。とまどい、立ち止まっていて、どちらの方向へも踏み出せるけれど、立ちすくんでどこへも踏み出せない。リアルな緊迫感を持った瞬間の積み重ねだ。

私たちもいつも日常で、勇気と決断が必要なコミュニケーションと向き合っていることを思い出す。どんな反応が返るのか、一体どうなるのか目が離せず、129分という長さを感じさせない。


将也によりそい、将也の視点から描く物語


見る前は、全7巻分の原作コミックの内容を、どのように映画1本にまとめるのか、非常に興味があった。

普通に考えれば、全部が収まるわけがない。となるとどこかを削るということになるわけだが、原作を読めば、どのエピソードも、どの人物の描写も、なくては成り立たないような気がしてくる。難しそうだな、と思っていた。

山田監督は、「将也の目線から」この作品を組み直した。エピソードを厳選し、繊細に演出をほどこして、純度の高い映画として仕上げた。

そのため、これは個人の感想だけれど、原作に比べて将也のイメージが変わった。

原作を読んだとき、やはり将也の最初のイメージは、イジメっ子だった。どんな事情があれ子どもであれ、ひどいことをするなあ、と思わずにはいられなかった。

でも、山田監督はまず、将也の側に立つことからこの映画を始めた。描かれる小学校時代の出来事は、すべて将也の目線から描かれる。

将也の前に現れた「風変わりな転校生」は、ひとつの事件だった。恐れを知らない将也は自由にふるまって、やりすぎて、そこから彼をとりまく世界は変わっていく。

孤立し、周囲から拒絶されたまま高校生になった将也は、とても傷ついている。自分に自信がなくて顔をまっすぐにあげられない。学校では人と目を合わせず、言葉もスルーして、自分がいないかのようにふるまっている。誰かとコミュニケーションをとろうとするときは、いつだって勇気をふるっている。

それを印象付けるのが、アニメならではの動きであり、声だ。将也の恐れがよく伝わってくる。観客を、ガキ大将を糾弾する傍観者の立場から、「過ちをおかすかもしれない自分」という主観に引き戻す。

身体は大きいのに、人の顔をまともに見られない将也。おどおどしながら恐れながら、それでも硝子に声をかけずにいられなかった将也。将也のすべてを肯定できない人も、彼がたどりつくラストシーンには、ほっとするのではないだろうか。

この映画の将也の魅力は、山田監督の目線のやさしさなのだと思う。



硝子の懸命な表情と声の響きが心を打つ


山田尚子監督のこれまでの作品「けいおん!」「たまこラブストーリー」などで一番大きな武器だった、少女の愛らしさ、いうなれば「萌え」は、この作品ではかなり抑えられている。

西宮硝子は美少女ではあるけれど、描写の精密さは、愛らしさの描出よりも「リアルな自然さ」を出すことにそそがれている。心惹かれる「萌え」はむしろ抑制されている。

聴覚障害者である硝子の発する言葉は、特有の聞きとりにくさを持っていて、決して「かわいい」ものではない。初めて聞いたときにはぎょっとするたぐいのものだ。

けれどその分、硝子がふりしぼる声は、心に突き刺さる。

聞きやすい言葉にならず、注意していないと意味がとれないこともあるのに、硝子の声の響き、そこに込められた感情は、強く伝わり、感情をゆさぶる。

自分の日常のコミュニケーションが、言葉の上っ面に頼りすぎていないか、相手の表情や声の調子に注意を払っているか、思わず考えてしまう。

きちんと描かれた手話も、とても雄弁だった。耳が不自由な人とそうでない人の間に必要な間や、手の表情の美しさ、思いが伝えられないもどかしさが伝わってくる。周囲に理解されなくても、何度でも臆せずコミュニケーションをとろうとする硝子の芯の強さに、心を打たれる。


コミュニケーションの難しさと、小さな救い


硝子が聴覚障害を持っていることから、「障害者を扱った作品」ととられがちだが、その見方だけではこの作品を見誤ることになるだろう。

また、イジメっ子とイジメられっ子の話ととるのも一面的だ。

テーマは一貫して、「伝えたいことが伝わらない」もどかしさだ。コミュニケーションには、常に壁がある。どちらが正しくてどちらがまちがっているということは簡単にいえないし、正解もない。それでも、カッコ悪くても相手に悪く思われても、声をあげ、行動せずにはいられない。

見ている間、将也や硝子たちの痛切な気持ちがぶつけられて、心がざわざわとしていた。決して気持ちよく泣ける映画ではない。「それはあんまりだろう」とキャラクターに言いたくなるようなセリフもシーンもたくさんある。

ひと言でいえない複雑な味わいだが、後味はいい。誰もが不器用で、もがきながら道を探しているこの世界を肯定できる。少し泣いて、少し人にやさしくなれる。

心に痛いシーンが多い中で、コミカルな味わいの永束友宏(ながつかともひろ)の存在は癒やしだった。そんな彼にも、終盤では泣かされたのだけれど。

そして硝子の味方で、「作中一番のイケメン」といわれる小さな騎士(にして妹)の西宮結絃(にしみやゆづる)の頑張りにきゅんとする。

まずは一度、予備知識をとっぱらった状態で、まっすぐすとんと、この映画に向き合ってみてほしいと思う。

原作では、将也や硝子の級友たちにもそれぞれの事情や思いがあることがわかるが、映画ではそこはあえて語っていない。もう少し彼らを知るために、映画を見てから原作を読んでみるのもいいだろう。


(やまゆー)

(C) 大今良時・講談社/映画聲の形製作委員会

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