ホビー業界インサイド第28回:フィギュア原型師という「職業」と「市場」を切り拓いた男、秋山徹郎の過去と現在

現在でこそ、アマチュアが趣味として制作するガレージキットから大手メーカーの生産する完成品やプラモデルまで、数え切れないぐらい沢山のフィギュア製品が販売されている。市場は十分に確立されているし、フィギュア業界で働いている人たちも大勢いる。
ところが30数年前、1980年代初頭のホビー業界では、美少女キャラを自作したモデラーの投稿が模型雑誌に載る程度だったのである。吹けば飛ぶようなフィギュア趣味を、「仕事」として定着させようとたったひとりで奮闘した男がいた。「ホビージャパン」や「模型情報」で作品を発表していた、秋山徹郎さんである。現在は株式会社MICの常務取締役をつとめる秋山さんを訪ね、80年代から現在にいたるフィギュア文化の舞台裏をお聞きした。


出版社にいきなり電話して、個人で商品化権を取得!


──いま秋山さんが所属している株式会社MICは、どういう会社なのですか?

秋山 当社の仕事のほとんどは、バンダイさんの製品原型です。「S.H.Figuarts」をはじめ、様々な原型を作らせていただいています。あとはバンプレストさんや他のメーカーさんですね。一部、OEM(他社ブランドの委託生産)も請け負っています。

──どういう経緯で、MICに入ることになったのでしょう?

秋山 10年ぐらい前、まだフリーランスで原型師をやっている頃、かつて仕事でお世話になった知り合いが原型会社を経営していると聞いたんです。それがMICでした。最初は「仕事をください」とお願いしに行ったのですが、「お前もいい歳なんだから、自分で原型を作るのではなくプロデュースする側に回らないか」と相談されました。それも面白いと感じて、入社させてもらいました。最初の4~5年は、社内の原型師とお客さんとの間に入って仕事を進める営業の仕事をしていました。今は経営側に回っていますが、社内だけでなくMICの仕事を手伝ってくれるフリーの原型師もたくさんいます。そういう人たちが年をとってもフィギュアで食べていける状況をつくりたくて、動いているところです。


──フィギュアブームは沈静化したように見えて、けっこう仕事はあるようですね。

秋山 ええ、商品点数は90年代後半~00年代前半のブームの頃とそれほど変わっていないか、ジャンルによっては増えています。たとえば、ゲームセンターや家電量販店にガシャポンマシンがたくさん並んでいますよね。それだけ需要があるということです。

──秋山さんは、タミヤ主催の「人形改造コンテスト」(1/35の市販のミリタリーフィギュアを実在の人物やキャラクターに改造して応募するコンテスト。1973年から毎年開催されている)から、フィギュア制作をスタートしたそうですが?

秋山 最初に応募したのは中学校のころで、入選できずに落ちまくっていましたね。高校に進学してから、吾妻ひでおさんの漫画をきっかけに、本格的にオタク趣味に足を踏み入れました。ファンクラブに入ったのですが、当時は新宿の喫茶店などで、月に一度の定例会がありました。そこへ自作の吾妻キャラのフィギュアを持っていったら、仲間にとてもよろこばれたんです。その頃、ちょうどガンプラ制作で有名なモデラー、小田雅弘さんが複製技術を雑誌に書いていたので、シリコンゴムとレジンキャストで自作フィギュアの複製を作り、最初はファンクラブの仲間に売っていました。そのうち、コミケにも卓を出して売るようになり、「ひょっとして、フィギュア制作は仕事になるのではないか?」と思いはじめました。高校から大学にかけての頃ですね。


──雑誌に作品が載りはじめたのも、同じ時期でしょうか。

秋山 確か、「魔法のプリンセス ミンキーモモ」のフィギュアを自作して「ファンロード」(ラポート刊)の編集部に持っていったんです。それを、「模型情報」(バンダイ刊)の編集者だった加藤智さんが見てくれて、フィギュア制作を依頼されるようになりました。僕の販売していた「ウイングマン」のガレージキットの版権は、模型情報が取ってくれたんです。


──「アウトランダーズ」のヒロイン、カームも正式に版権を取得して販売したガレージキットでしたね。

秋山 「アウトランダーズ」は、自分で版権を取ったんです。漫画を連載していた白泉社に電話して、「ガレージキットという、プラモデルみたいな商品を売りたいんです」と口頭で説明しました。「何個ぐらい売りたいの?」「500個ぐらいです」といった会話をして、なんだか熱心な変なファンが電話してきて、ちゃんとルートを通して商売しようとしているみたいだから、版権シールを発行してやろうか……程度の、軽いノリで許可してくれたと思うんです。

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