「この世界の片隅に」がリスタートした「もうひとつの戦後史」【平成後の世界のためのリ・アニメイト第1回】

平成期が終焉を迎えようとしている中、アニメを取り巻く状況もまたひとつの転換期を迎えている。今、アニメは果たしてどこへ向かおうとしているのか……?

気鋭の評論家・中川大地が現在進行形のアニメ作品たちを読み解き、「平成」以降の時代を展望する連載コラムがスタート!


2016年を、振りかえってみるところから始めよう。

そう、今上天皇が生前退位の“お気持ち”を表明して「平成」という時代の終焉が確定し、奇しくも日本の戦後カルチャー史の画期をなすような社会現象が立て続けに起こった、まだ記憶に新しいあの夏のこと。

アメリカをはじめ世界的なブームの逆輸入として起きた「ポケモンGO」、戦後日本の情念そのものを象徴する怪獣王を3.11後の現実の鏡として再生させた「シン・ゴジラ」、そして夏休み明けの若者層の支持で火が付き、邦画歴代2位の興収にまで上りつめた「君の名は。」。

これらのヒット作は、日本の国力の低下とともに分野を問わず国産エンタメの地盤沈下が危惧される中、いずれも21世紀的なコミュニケーション環境の爛熟に大きくブーストされながら、20世紀以来の国産コンテンツの資産を、それぞれに違った意味で現代化してみせた。

あれは日本カルチャー再生の狼煙(のろし)か、避けられない衰退の中での辛うじての延命にすぎないものだったのか。そうした大きな判断には、多分もっと後世になってからの評価が必要なのだろう。

けれども、1 人ひとりが観たい世界のあり方を意識していくことで、どんなふうに時代が転げようと、そうそう揺るがないみずからの生き道を見つけ出していくことくらいはできるはず。

そんなつもりで、日本アニメの現在を平成後の世界へのよすがとして読み解き、観ることと生きることを結びつける材料をサルベージしていくことが、本連載の狙いどころだ。

だからこの話は、2016年ショックの中で、穏やかながらも最も根強く観た者たちの現実に作用し続けている映画に起点を置くのが、一番似つかわしいように思う。

同年11月の公開以来、数々の受賞ラッシュを記録し、今も異例のロングラン上映が続く、「この世界の片隅に」のことである。

“あの戦争”との向き合い方の変化の果てに

「2016年映画」としての「この世界の片隅に」の立ち位置をあえてひと言で言い表すなら、「シン・ゴジラ」との対称が最も際立っていた作品だ。

統治者の視点から戦後日本の構造的な問題と、その克服へのわずかな理想の再生を描いたのが「シン・ゴジラ」だったとすれば、徹底していち生活者の目線から、昭和期から続く戦後アニメの想像力を総括する役割を果たしたのが「この世界の片隅に」だったからだ。

両作がそのような対称関係で登場した背景には、その創り手たちが辿った“あの戦争”の描き方の脈絡がある。

こうの史代による原作版「この世界の片隅に」(2007年)が、教条的な反戦教材とは一線を画した繊細な手法で、広島原爆がもたらした戦後の爪痕をみずからの世代の物語として伝え直した出世作「夕凪の街 桜の国」(2004年)の流れを汲む作品であることはよく知られている。

そして同作が話題になった戦後60年のタイミングには、おりしも「シン・ゴジラ」の特技監督にあたる樋口真嗣が、こうのと同じ1968年生まれの福井晴敏の原作による特撮映画「ローレライ」(2005年)を監督している。こちらは、終戦間際に第三の原爆を東京に落とされるのを超能力少女の力を使った潜水艦で防ぐというSF架空戦記的プロットで、戦後日本の矛盾をトリッキーなかたちで告発しようとした作品だ。

つまりは、戦後サブカルチャーの洗礼を受けた世代が、それぞれ対称的なスタイルでイデオロギー性を脱臭しつつ、“あの戦争”を自分たちなりに語り直す試みを開始しており、その系譜が戦後70年を経た「シン・ゴジラ」と「この世界の片隅に」においても継続されていたのである。

そもそもが戦争映画の継承だった初代「ゴジラ」(1954年)以降、特に男子向けのスペクタクルを主眼とした日本の特撮やアニメは、敗戦国として直接的にはエンタメ化しづらい“あの戦争”のモチーフをSF・ファンタジー的な世界観に置き換えるかたちで展開するで発展を遂げた。

とりわけ大きなメルクマールとなったのが、その名の通り戦艦大和を正義の側に位置づけた「宇宙戦艦ヤマト」(1974年)による1970年代後半からのアニメブームの勃興だ。以来、戦後民主主義の建前(地球連邦軍)と旧大日本帝国軍的な情念(ジオン軍)のねじれをそのまま世界観化した「機動戦士ガンダム」(1979年)をはじめ、「新世紀エヴァゲリオン」(1995年)の「綾波」「葛城」や「涼宮ハルヒの憂鬱」(2006年)の「長門」など、旧海軍の艦船名に由来する女性キャラクターたちの命名に至るまで、旧軍オマージュ的なミリタリズムは、日本アニメの隠れた“本音”をにじませるモチーフになってきた。

それが「ローレライ」以降、いよいよタブー(自制)が解かれてメジャーなエンタメの領域で直接的に日本の戦争が扱われるようになり、さらには「艦隊これくしょん -艦これ-」(2013年)のリリース以降、「エヴァ」「ハルヒ」では隠喩に留まっていたメカと美少女へのオタク的なフェティッシュが赤裸々に前面化していく。

このように、戦後民主主義的な建て前の“風化”とインターネット以降の受容の直接化によって、アニメや(特にシミュレーションゲームにおいて表現しやすい)ゲームにおいては“あの戦争”をめぐる語り口が、(その良否はともかく)大きく再編されていたのである。

「片隅」の視点が貫徹した原作から「世界」を洞察するアニメへ

そして、これらの男性オタク向けスペクタクルとはまったく対照的な「夕凪の街 桜の国」の後継作として原作漫画「この世界の片隅に」が登場したのは先述の通りだが、広島市の隣の呉が舞台になったことで、意外なファン層の重畳が起こっていく。

旧海軍の鎮守府があった呉では、やはり戦後60年記念映画だった2005年の「男たちの大和/YAMATO」公開とリンクして大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)が “軍都”としてのタブー意識を払拭するかたちで開館しており、ミリタリーファンを中心に多くの集客を誇る地域観光の中核となりつつあった。

アニメ映画化に向けて片渕須直監督が名乗りをあげ、2015年に制作資金調達のためのクラウドファンディングが始まると、ロケハンに協力した大和ミュージアム関係者など現地側のサポーターらが旗振り役となって、「艦これ」の聖地巡礼者なども巻き込みながらファンムーブメントが盛り上がっていったのである。

そうした流れの中、高畑勲に加えて宮崎駿という日本アニメ最大のミリタリ-・フェティッシュの継承者でもある片渕監督のアニメ化では、主人公・北條(浦野)すずの「片隅」側の視点に徹して“戦時中の普通の生活”のディテールを楽しげに描いた原作の魅力を緻密にアニメイトすることを主軸としつつ、夫・周作や義父・円太郎といった海軍関係者の男たちの「世界」の後景を克明に描いていくスペクタクルの側もまた、相対的に強化されていくものとなった。

それゆえ、彼らをまなざす、すず側の態度は、「片隅」の視点から「世界」を絵画能力によって想像していくというニュアンスが、原作以上に強調されている。それはあくまでも漫画からアニメへのメディア置換に伴う必要最小限の変換ではあるのだが、ゆえにこそ戦後アニメの歴史がメディア論的な必然として担ってきた政治性への批評が、この映画では強く発生しているのである。

特にその批評性が強くあらわれているのが、まだ嫁としての境遇に慣れないすずが、周作と共に北條家近くの丘から、緻密に描かれた戦艦大和を入港を見下ろすシーンだ。まさに大和こそは、「宇宙戦艦ヤマト」で決定的になる戦後アニメ最大の旧軍フェティッシュの源泉にほかならない。

このシーンで、周作に「あれが東洋一の軍港で生まれた世界一の戦艦じゃ/『お帰り』言うたってくれ すずさん」とうながされたすずの反応は、原作ではごくフラットなコマ進行の中で、無言の反応のまま下段に転落するオチにつながる、抑制的なものに留まっている。

ここには、男性性への醒めた視点と、互いが内に抱える不隠な何かが表面化しそうになる瞬間、ユーモラスなオチが断絶をうやむや化して平穏な関係性を回復するという、こうの漫画の基本的な構造が垣間見える。

対してアニメ版のすずは、あそこに2700人もの乗組員がいるという周作の解説(その間、水兵たちが手旗信号で活動する大和の艦上のディテールへとカメラが移る)にビビッドな反応を示し、「はぁ~、あんとなところでそんとにようけの人らに毎日ご飯つくっとるん!? 洗濯は…」と、みずからの実感的な生活感に引きつけた感嘆で思わず立ち上がった拍子に転落する。

こちらは男性性と女性性の、ないしは「世界」と「片隅」の歩み寄りのシークエンスとして、原作の読み替えがなされているのだ。

こうしたすずの人物像には、長編初監督作「アリーテ姫」(2001年)で確立された片渕ヒロインに通底する、何気ない普通の生活の背後に潜む現実の豊かさを想像力によって感得するという、「世界への洞察」の力が付託されている。

言うなれば、宮崎駿をはじめとする戦後アニメ的なフェティッシュを相対化するための視点として、こうの漫画の他者性を生かしつつ、それを高畑勲的な生活リアリズムのアップデートによってフィルム化したものが、「この世界の片隅に」という映画なのである。

8.15玉音放送後の“改変”の意味

こうした批評性が、作品の最終的なメッセージ性に直結するかたちで結実しているのが、物語の終結に向かう8月15日の玉音放送後、右手を失ったすずの台詞の改変だ。

原作では、「この国から正義が飛び去ってゆく」というモノローグに続き、朝鮮民族の“解放”を祝う太極旗が掲揚されたコマから「…ああ/暴力で従えとったという事か/じゃけえ暴力に屈するという事かね/それがこの国の正体かね/うちも知らんまま死にたかったなあ……」と連ねていく見開きで、それまで抱え続けてきた「世界」の理不尽への思いを決壊させるクライマックスとして描かれている。

しかしこれは、それまで積み重ねてきたすずの人物像や語彙からすると違和感の大きい、作者の立場からの戦後的な「反戦マンガ」の教条性に落とし込んでしまったシーンとして、漫画読みたちから批判を受けることも少なくなかった。

対してアニメでは、「飛び去ってゆく。うちらのこれまでが。それでいいと思ってきたものが。だから我慢しようと思ってきたその理由が」で太極旗のカットが挟まり、「…ああ、海の向こうから来たお米、大豆、そんなもんでできとるんじゃなあ、うちは。じゃけん暴力に屈せんといかんのかね。ああ、なんも考えん、ぼーっとしたうちのまま死にたかったなあ」と続く。

意味合いは同じながらも、徹底してすずが「片隅」にあるみずからの身体性から、「世界」のありようを洞察していくボキャブラリーによって置き換えることで、原作時の批判に応えるテーマの普遍化が試みられているのである。

この改変は、逆に「国」や「正義」という大文字の概念をオミットしたことで、一部の左派系の論者からは「日本の戦争犯罪の告発をマイルド化する、歴史修正主義に通ずる態度だ」といったイデオロギッシュな批判を呼ぶことにもなった。

だがそれは、わざわざ反戦というみずからの主張に共感する者を減らすだけの、近視眼以外の何物でもないだろう。映画全体のスタンスを鑑みれば、これは“あの戦争”をみずからに地続きの出来事として改めて引き受け直し、観た者が「世界」への想像力を取り戻すための試みにほかならない。

片渕監督は、「すずさんを“実在”の人として観る人たちに感じさせたかった」という本作のアニメイトのコンセプトを、随所で繰り返し述べている。この姿勢は、こうの史代が「漫画アクション」での連載当時、劇中の昭和と当時の平成の年月を一致させることで試みていた、戦争体験を読者の“自分事”に接続しようというする仕掛けとも通底している。

つまり、雑誌連載ならではのリアルタイム性に依拠した仕掛けを、いかにしてアニメ映画のメディア特性に置き換えるのか。その突き詰めの帰結として、食事を中心とした当時の生活のディテールや街並み、戦時過程や天候までを徹底して調べ上げ、片渕は「世界」の再現にこだわった。それらすべてが、「片隅」にいるすずの身体性を成立させるための営為であった。

その執念に貫かれた積み重ねがあってこそ、画面には描かれない「海の向こう」に対する加害者でもあった「ぼーっとしたうち」の成り立ちを洞察させ、その身に降りかかった暴力への因果を悟るという構図が成立している。そのような表現構造への自己言及として、あのシーンの台詞は受けとめるべきなのではないだろうか。

ラストシーンが示唆した「もうひとつの戦後史」

そうした表現構造が帰結するのは、“あの戦争”を過ぎ去った歴史としてではなく、観た者たちがこの物語を現在に接続し、自身の体感から外部を想像することで新たな歴史を始めることへと動機づけるリスタートの意志だ。

その最大の媒介者となったのが、主演声優・のんである。言うまでもなく、彼女はNHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」(2013年)の主人公・天野アキを演じたことで一躍国民的女優となった能年玲奈が、「千と千尋の神隠し」ばりの理不尽によって、本名での活動を自粛せざるをえない境遇に追いやられ、名前を奪われたという現実側の事情を抱えた存在である。

東日本大震災を真正面から描き、最終回で虚実をつなぐトンネルを抜けた「あまちゃん」は、その年末の紅白歌合戦でもリアリティショー的に真・最終回を入れ込んだ、〈拡張現実の時代〉の申し子とも言うべきドラマだった。

そんな履歴を背負ったのんのキャスティングには、アニメ版「この世界の片隅に」を過去の戦災の単なる追体験としてでなく、現代日本を生きる観客たちが様々な当事者性において味わった3.11の被災体験を敷衍し、“自分事”として経験される可能性を、およそ考えうる最大限の域にまで高める意味すらあった。

特に、8月6日の広島原爆を、呉から眺めることになったすずの間接体験のあり方は、東北以外で津波や原発事故をもどかしく体感した人々の身体経験を、否応なく想起させたはずである。

この振れ幅は、当事者として右手や晴美を失った直接の被災体験と合わせて、現代の日本人がこの作品を“自分事”として体感しうるレートを、大きく高めるのに貢献している。

そして物語の終結、「片隅」に生きるすずは、「世界」の側に軸足を置く周作との和解を果たす。互いの子をなすという典型的な垂直関係による成熟ができなくとも、すみや径子といった姉妹たちとの水平的な関係や、広島の焼け野原で出逢った孤児ヨーコの養母となる斜めの関係を見出すことによって、ひとまずの救済が果たされる。

ここには、戦後日本が規範とした典型的な核家族ではなく、実際にはもっと多様であった非典型家族の生成を通じて、「もうひとつの戦後史」の可能性が示唆されていたのではないだろうか。

(つづく)

(文/中川大地)

<中川大地プロフィール>

編集者、評論家。

1974年東京都墨田区向島生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科博士後期課程単位取得後退学。ゲーム、アニメ、ドラマ等をホームに、日本思想や都市論、人類学、情報技術等を渉猟して現実と虚構を架橋する各種評論等を執筆。カルチャー批評誌「PLANETS」副編集長。著書に『東京スカイツリー論』『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』。共著・編著に『思想地図vol.4』(NHK出版)、『あまちゃんメモリーズ』(PLANETS・文藝春秋)など。村上隆監督のアニメ『6HP』に脚本・シリーズ構成で参加。

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