「クラスの隅っこにいる人」のために、アニメを創る──「鬼平」監督、宮繁之の語る“創作の動機” 【アニメ業界ウォッチング第43回】

池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」をアニメ化して話題となった「鬼平」(2017年)が、時代劇専門チャンネルで、この4月から毎週金曜深夜に再放送中だ。
監督とキャラクターデザインを担当した宮繁之氏は、アニメーション制作進行出身である。だが、本人はガチガチのアニメ好きというわけではなく、流れ流れてアニメ業界に行き着いたのだという。その漂泊の半生を、新作準備中の宮監督に語っていただいた。


最初は、教師になるつもりだった──アニメ業界に入ったころ


──宮さんは26~27歳で監督デビューなさいましたが、それまでの経緯を聞かせていただけますか?

 最初は、スタジオディーンで制作進行をしていました。もともと、僕の家族は教員ばかりで、自分も国語の教師になるんだろうとぼんやり考えながら大学に進学しました。ところが教員に不向きな性格もあり、「本当に自分がやりたかったのは何なのだろうか」と考えた結果、アニメの世界に入りました。

──すると、アニメには興味があったわけですね?

 特にアニメにだけ興味があったというより、日本文学の授業の一環でシナリオを学んだし、絵を描くのは小さいころから好きでした。と言っても、美術大学に入ったわけでもアニメの専門学校に入ったわけでもありませんから、いろいろな職種の中でスタジオディーンも受けさせてもらった、という感じです。

──制作進行としてスタートして、その後、アニメーターに転向されたわけですね?

 それが、転向というほど華々しい話ではないんです。制作進行のころは、車で何度も事故を起こしてしまいました。幸い人命にかかわることはなかったのですが、プロデューサーからは「もう辞めるか?」と言われましたし、自分としてもそれ以上、周囲の人に迷惑をかけたくありませんでした。故郷に帰って何ができるだろうか、真剣に考えました。よく「職がないならタクシーの運転手でもやればいい」と言われますが、自分は車の運転すら満足にできないわけです。悩んでいたとき、「機動戦士ガンダムUC」の監督、古橋一浩さんが「宮くん、絵でも描けば?」と声をかけてくださいました。当時、古橋さんは「るろうに剣心」のOVA(「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 追憶編」)を監督していて、その作品でちょっとだけ原画を描かせてもらいました。「いいじゃん、描けるじゃん」と古橋さんに言っていただけて、それからアニメーションのクリエイティブ面に関わらせてもらうようになりました。

──動画ではなく、いきなり原画ですか?

 そうです。タイムシートも読めませんでしたから、後々、苦労することになりました。それから、古橋さんと師弟関係を築いたのであればいい話になるんでしょうけど、そんなことはありませんでした。だけど、箸にも棒にも引っかからない自分をとりあえず業界に残してくれた恩人が、古橋さんなんです。ありがたかったです。


──宮さんはアニメーターになった後、絵コンテを何本か書くようになりますね。

 最初にオリジナルキャラクターデザインをやらせてもらった「京極夏彦 巷説百物語」(2003年)で、初めて絵コンテを書きました。書いてみて、プロデューサーが「良かったよ」と褒めてくださったことがきっかけです。

──誰かから絵コンテの書き方を習ったわけではないんですね?

 僕の場合、誰かから何かを習ったことはなくて、仕事しながら「こうやればうまく伝わるんだな」と経験を積み重ねて、ノウハウを体得していった感じです。人それぞれ話し方が違うように、使っている文法も違います。結局、僕がそれまでに学んだことや、見てきた映画などが映像に表れているのかなと思います。

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