総括・「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」──長すぎた戦後アニメ思春期の終りによせて(前編)【平成後の世界のためのリ・アニメイト 第8回】
平成から令和へと時代が移り変わる中で、注目アニメへの時評を通じて現代の風景を切り取ろうという連載シリーズ「平成後の世界のためのリ・アニメイト」。
今回のテーマは、2度にわたる公開延期を経て、2021年3月についに公開! 四半世紀にわたる歴史に幕を下ろした「シン・エヴァンゲリオン劇場:||」。
平成を代表する歴史的大ヒット作の完結編を、前後編の2回にわたり、評論家の中川大地が一刀両断する。
(ネタバレも多いので、あらかじめ了承のうえで読み進めていただきたい)
はじめに──あるマラソン走者の記録と長すぎたレースの終焉
2021年3月8日。リアルタイム世代の古参オタク層の例に漏れず、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」は初日に観ていた。
東京で2度目の緊急事態宣言が明けるはずだったこの日、直前まで上映時間が確定せず、前売り開始日の0:00ギリギリを狙って多くのコア層が上映館のサイトに殺到し、最速鑑賞チケットを争奪していた流れからだ。SNSでもさまざまにシェアされていたその光景は、まるで四半世紀前に起きた、誰も彼もが「新世紀エヴァンゲリオン」(1995~96年)についてそれぞれの愛や憎や情や論を語らされずにはいられなかった社会現象的なブームのときの空気感を、ごく局所的・瞬間的ながらも彷彿とさせるものだった。筆者もまた、たまさか確保できた池袋グランドシネマサンシャイン4DX版のせわしないシートに身を沈め(否、せわしなく揺られ)、その終焉を見届けることになった。
2時間35分の本編を観了したのち、筆者が思い出したのは、東京オリンピック2020の開催に向かう機運の中で近年リマインドされた、あるアスリートをめぐる故事だった。
それは日本が初めて参加した近代五輪である1912年のストックホルム大会のマラソン競技に出場した金栗四三選手が、レース中に意識を失って行方不明扱いとなったのち、半世紀以上の時を隔てた1967年3月21日に開催された同大会の55周年記念式典に招聘され、改めてゴールテープを切ったことだ。このときにアナウンスされた記録は、実に54年8か月6日5時間32分20秒3。庵野秀明総監督が、7歳になる年の出来事である。
五輪史に残るこのエピソードは、金栗を主人公に描かれた宮藤官九郎脚本のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」(2019年)の最終回でもエピローグ的に描かれたことでよく知られるようになったが、「シン・エヴァ」の終劇を見届けた我々の多くもまた、その記録の半分以下の期間ながら、似たような感興にとらわれたのではないだろうか。
金栗四三がパイオニアとして偉大な第一歩を踏み出したことで、後続世代が活躍する日本スポーツ興隆の礎が築かれたように、「エヴァ」が現在にまで引きつづく第三次アニメブームの発端となった、時代そのものの功績者であったことは間違いない。しかしながら、いちアスリートとしての金栗の最初の檜舞台が不本意・不名誉なものであったがゆえに伝説を遺してしまったのと同様、いち作品としての「エヴァ」もまた、その「終わり方」の不全感によってこそ、逆説的に社会現象化を加速してしまったという側面が否めない作品だった。
そして日本中の期待に応えられなかった自責の念にさいなまれる金栗自身がオリンピック選手として汚名をそそげる機会にはなかなか恵まれないうちに、彼の試みを踏み台に日本スポーツ全体が別のステージへと移っていったさまは、ポスト・エヴァの諸ジャンルの作品群がそれぞれに受け継いだ表現や主題を尖鋭化させながら、あまりにも1990年代という旧世紀末の時代相と密着しすぎていた「エヴァ」の問題設定を、次々と塗り替えていった状況にも重なる。
だから、ストックホルム大会のマラソン競技のように、「そのレース、まだ続いてたのか……?」というのが、本作を最初に観たときの率直な驚きだ。そして、もはや誰もが時効と思っていたはずの周回遅れどころではない問題にこだわり続けた庵野総監督が、きわめて愚直な責任意識で当初のテーマに落とし前を付けきったことには、多くの古参アニメファンが感じたのと同様、筆者もまた「成仏」とは何かを見せつけられた気がした。
正直なところ、個人的な感想としては、それだけと言えばそれだけだ。
空腹が味覚の最高のソースであるのと同様に、現実における時間の流れこそがフィクションの受け止めにとっても何物にも代えがたい価値を生むのだという経験を、(それはもはや「エヴァ」でやる必要があるのかという当然の懐疑をはらみつつも)ひと続きのタイトルとして観客に味わわせた点こそが、本作の何よりの特異性だったと言えるだろう。
上映開始からすでに2か月以上の時間が経ち、本作の制作風景を追ったNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀〜庵野秀明スペシャル〜」およびBS-1での100分拡大版「さようなら全てのエヴァンゲリオン~庵野秀明の1214日~」と、旧作の春映画と夏映画の関係よろしく2段階にわたって放送された庵野秀明総監督のドキュメンタリー番組や、立て続けに新たな特報映像の公開や制作発表がなされた「シン・ウルトラマン」および「シン・仮面ライダー」といった、庵野監督の次回以降の脚本/監督作の話題などが相次いだこともあって、本作は昨年の「鬼滅の刃 無限列車編」の勢いに続き、興収100億も視野に入ると言われていた。ただし、あいにくその途上で3度目の緊急事態宣言に突入したこともあって、本作がクラシカルな「メカと美少女」もののオタクアニメの最高峰という域を超え、単体映画として「国民作」レベルの興収規模に到達できるかどうかの見込みは微妙だ。
そのような一段落感のある情勢下ながら、日本アニメから「平成後」の世界のありようを(きわめて低頻度ながら)読み解き展望する本連載の趣旨において、平成という時代精神そのもののひとつの終焉に等しい本作を、やはり見過ごすわけにもいかない部分がある。
ネットで公開するサブテキストとしてはだいぶ遅きに失した感も強いが、改めて、いくつかの観点から光を当ててみることにしたい。
戦後日本アニメ史のターミナルとしての「エヴァ」
本作を語るということは、「エヴァンゲリオン」という20世紀末の「虚構の時代」の終わりを体現するコンセプトが、この四半世紀の時の流れの中で、どんな現実によって追い越されていったのかを数えていくことにほかならない。
最初のTVシリーズから旧劇場版の完結までに至る最初のエヴァ・ブームが起きたのは、阪神淡路大震災と、オウム真理教というカルト集団が引き起こした地下鉄サリン事件という前代未聞の化学兵器テロが日本社会に大きな衝撃を与えていた時代だ。より長期的にはバブル経済崩壊後の複合不況の影響が広がり、とにかく1980年代までの日本社会の繁栄が途絶えて先行き不透明になっていく1990年代の世相そのものと、この上ないほどにシンクロしたコンテンツとして現れた(少なくとも、そのようなものとして受け止める言説が蔓延した)ものだった。
そこで「エヴァ」は、「ウルトラマン」などの怪獣特撮ヒーローもののフォーマットを基盤としつつ、そこから派生して1970~80年代に発展したSFロボットアニメや、主に少女マンガで発展した心理描写を軸にしたキャラクタードラマなど、1980年代までに発展した戦後日本のサブカルチャーの系譜を集大成した作品として、高度な完成度を発揮した作品だった。
その総括を経たポスト・エヴァの日本アニメは、スタイリッシュな映像センスやセクシャルな記号性に満ちたキャラクター造形、あるいは「セカイ系」と呼ばれる心理主義的な作劇流行といった内容面でも、さらには複数の版権ホルダーが製作委員会方式の形を取り、深夜アニメ等でコアファン向けに制作しパッケージソフトや関連グッズの販売でリクープを目指すといったビジネスモデル面でも、時代の先端として大きくアニメ制作の現実を変えた。
昭和期に形成された戦後サブカルチャー史の「大きな物語」の連続性に「エヴァ」はひとつの終止符を穿ち、平成も10年を過ぎるころには細分化したユーザーの欲望に応じた小粒なコンテンツがインフレ的に増殖していく「深夜アニメの時代」としての2000~10年代が到来する。
言い換えれば、「エヴァ」において戦後昭和のダイナミズムによって発展してきた日本アニメのイメージの本質的なイノベーションは終焉し、そこで歴史的な時間は断絶しているのだとも言える。以後は「エヴァ」時点までに提出されたレパートリー内でのイメージの順列組み合わせによって、時代の気分や市場の動向、そして技術の発展に即したさまざまなコンテンツが流行・増殖していくという環境がもたらされたといった見方さえ可能だ。
こうした「エヴァ」という作品の特異な位置づけは、たとえば日本アニメ誕生の100周年を記念して「芸術新潮」2017年9月号で特集された有識者による日本アニメベスト10の投票でも、堂々の1位を獲得していることなどからも明らかだろう。
00年代から取り残された新劇場版「:序」「:破」の困難
だからこそ、昭和をせき止めたはずの「エヴァ」の時間が、2000年代の後半から「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズとして動き出したことは、同時代のアニメの状況にかんがみて、とても無理のあることのように思えた。なぜか。
その理由のひとつとして、TVシリーズの最終2話分の物語を改めて作り直した旧劇場版「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」(1997年)での完結のわずか10周年にあたる2007年という「:序」の始動時期が、ちょうど富野由悠季監督が「機動戦士Zガンダム」(1985〜86年)の20周年企画として「機動戦士Zガンダム A New Translation」(2005〜06年)の3部作映画としてセルフリメイクした翌年のタイミングにあたったためだ。つまり、思春期的な自意識の暴走による少年の成長物語の失敗を作家主義的に描いたという意味で「エヴァ」の原点のひとつにあたる作品で、その結末をポジティブに書き換えようという試みがなされた直後のことだったのである。
その底には、富野の場合は明らかに「エヴァ」のようなフォロワーが登場してしまったことに対する歴史的な責任意識(あるいは当てつけじみた対抗心)があった。
ただし、庵野秀明自身のモチベーションとして、何をやっても「『エヴァ』のセルフパロディになってしまう」という自身の限界に向き合おうとしたことや、1997年の旧劇場版の完結をもってしても納得のいく完結が迎えられなかったことへのリベンジの念があったことは、新劇場版の始動当時から随所で語られている。
だから、なかば状況への責任意識で作らされたとも言える富野に対して、「ヱヴァ」の場合はあくまでも内的なセルフセラピーの必然から企画化されている(少なくとも、そのような広言によるブランディングがされている)点では、2つのリメイク映画は作品傾向としては同じ後始末感がありながら、対照的な企画性を持っていたと言えるだろう。
ともかくも富野という先行者が20年の時を隔てて(作品的な成否はともかく)応答してみせたのとほぼ同様の傾向で、その半分の期間で旧作を「健全」化する方向でセルフリメイクしていった「序:」および「破:」のコンセプトは、先達に対してはいかにも熟成不足で後追いじみて見えたのだ。
そして、2001年のアメリカ同時多発テロや小泉純一郎内閣による構造改革を機にした新自由主義の嵐が吹き荒れ、さらにIT革命の進行によって人々のリアリティが塗り替えられていくようになると、明らかに「エヴァ」に刻まれた旧世紀末の気分は、少なくとも若年層向けの流行コンテンツの流れの中では明らかに古びたものになっていたと言える。
たとえば1990年代的なサイコサスペンス的なムードから複数の正義がしのぎを削るバトルロワイヤル的・デスゲーム的なそれに向かっていった「平成仮面ライダー」シリーズの隆盛や、逆に「エヴァ」最終話における夢想をてらいなく突き詰めることで現実の聖地巡礼ムーブメントなどと結託しながら拓かれていった「涼宮ハルヒの憂鬱」(2006年)以降の多幸的な日常系キャラクター劇、「週刊少年ジャンプ」でインパクトを残した「デスノート」(2003~06年)や、その影響下でスマッシュヒットとなった「コードギアス 反逆のルルーシュ」(2006〜08年)のような異能力を活かした知略ピカレスクロマン、あるいは殺伐さを増す時代のムードを批判的に受け止めながらジモトの共同性を再編したりスクールカーストの外部を志向したりすることで現代的な成熟像を見つけだそうとする「木更津キャッツアイ」(2002年)や「野ブタ。をプロデュース」(2005年)といった青春ドラマの流れ、さらに2010年代のバトル漫画の新基準となった「進撃の巨人」(2009~21年)など、ポスト・エヴァのモチーフを昇華させた後続世代の作品群が続々と時代のムードを塗り替えていたためだ。
とりわけコロナ禍になる直前、怪獣特撮〜巨大ロボットアニメの歴史を徹底的に総括しながら、2010年代末時点でのポスト・エヴァの問題設定に対するこの上ない模範解答をアニメ外から示してみせたのが「十三機兵防衛圏」(2019年)のようなゲーム作品だったことは、本連載第5〜7回でも取り上げたとおりだ。
要するに「エヴァ」の、すなわち戦後日本のスペクタクル表現に引き継がれていた、敗戦のトラウマとアメリカの植民地化という国家としての自立の困難をめぐる隠喩を抱えた状況設定や道具立てのフェティッシュにこだわりながら、個人レベルの社会的承認や成熟をめぐる困難として描くというタイプの問題設定が、庵野のようなオタク的な屈託を余儀なくされた世代の上下からの応答によって、かなりの程度無効化されてしまっていたのである。
もはや夜神月が計画し、ぶっさんが「普通」に逝き、涼宮ハルヒがダンスし、修二と彰がプロデュースし、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアが命じ、エレン・イェーガーが駆逐し始めていた世界にあって、いまさら碇シンジがカミーユ・ビダンを手本に救済と成熟のルートを見出したしたところで、そこにどんな状況批判力があるというのか。
2000年代以降のコンテンツ産業のもうひとつの特徴でもあるパチンコ化による収益をもとに、庵野秀明が原作者としてガイナックスから「エヴァ」の版権を引き上げるかたちで独立を果たした新スタジオ・カラーとして新劇場版を始動させたことについて、あくまでも庵野秀明の個人的決着と制作サイドのお家事情によるIPビジネスとしての延命策以上の文化的意義を見出すことは、きわめて難しかったと言えるだろう。
旧作のストーリー骨格を踏襲しつつ、作画面だけ潤沢な予算でリファインし、ポスト・エヴァの流行作劇のひとつである「ループもの」としての可能性も匂わせながら、碇シンジや綾波レイや(惣流改め)式波・アスカ・ラングレーの成長を周囲の大人との関係も含めてよりていねいに描き直していくという「:序」から「:破」までの流れは、主題的な前進というよりも、かつての表現のエッジを丸めてみずからを追い越していった時代に迎合し、多数の消費者が「見たかったもの」を願望充足的に見せる口当たりのよいウェルメイド化としてしか、批評的には受け取りようがなかったからだ。
(なお、そのようになった事情への推察材料としては、特に5月1日放送の100分拡大版のドキュメンタリーに収められていたスタジオ・カラー内での制作工程の風景が興味深い。そこでは、プリヴィズ段階から多くのスタッフに対して試写を行い、その結果を相当程度フィードバックしている過程が記録されており、それがカラー独自のプロセスであることが若いスタッフによって語られる。ここからは、新劇場版が旧作に比してエッジが削られてカドの取れたオープンエンターテインメント路線になっていった制作体制面での所以の一端が垣間見える。)
新展開で旧作ムードへの回帰を図った「:Q」とその代償
では、2012年に公開された「:Q」ではどうだったか。
「:破」からは3年という、シリーズ映画の続編として常識的な期間で公開された「:Q」で描かれた、前作で初号機に取り込まれたシンジが14年間の時を隔ててサードインパクトによる崩壊後の世界で目覚め、ひとり浦島太郎的に取り残されているという物語展開は、旧作「エヴァ」のリファインという域を逸脱し、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」という一連のシリーズにおける「超展開」として体感された。
そこでシンジが接するのは、反ネルフ組織「ヴィレ」のリーダーとなった葛城ミサトや赤木リツコ以下、かつて自分を導いた大人たちや、隻眼になったアスカといった、一時は心が通じ合えたと思えた他者たちの過剰に拒絶的な態度だ。冒頭のUS作戦で起動した空中戦艦、AAAヴンダーの艦内や、「:破」で命がけで助けたはずの綾波レイとは別のクローン(別レイ)の操るエヴァンゲリオンMark.09に連れられて戻る変わり果てたネルフ本部、という狭い範囲の舞台と人間関係の中でドラマが進行することもあり、「:Q」は前2作までの順当な成長劇とは一転、ギスギスとした閉塞感の中でシンジが精神的に追い詰められていく心理劇が描かれていくことになる。
そして詳しい状況設定こそ異なるものの、(特に異性を中心とした)他者との関係に絶望し孤独感に陥ったシンジの心を救済するよすがとして渚カヲルとの甘美なBL関係が描かれ、かすかに希望が見出されるものの、最後にそれすらも人類補完計画をめぐるゼーレと碇ゲンドウの思惑の中で裏切られる。すなわち、実は使徒だったカヲルが目前で惨殺される羽目に陥ることで決定的に心が壊れるところにまで追い込まれるというシンジの心情ドラマの面では、旧作TVシリーズの最終2話の直前の状況とほぼ同様の経過に導かれていく。
その意味では、「:序」「:破」でマイルド化した物語のムードを、いったん旧作終盤の空気感に回帰させるための作劇が、「:Q」では企図されていたわけである。
ただし旧作当時の1990年代後半であれば、取り立てて大がかりな物語上の設定なしに、説明排除の謎めいたトリッキーな演出によって観る側が現実の時代そのもののムードとの共振としてナチュラルに受け止め可能だった不条理感の描写が、「:Q」の時点ではニアサードインパクトの前倒しの発生とそのシンジへの帰責化という大状況による合理化を経ることなしには、もはや(庵野のメンタリティとしても受け手や社会の側の変遷としても)再現不能になっていたということでもあるだろう。(こうした新旧作での描写スタイルの変化については、NHKのドキュメンタリーで庵野自身が「謎めいたものには今の観客はついてこない」という主旨のことを語っていることにも対応している)
このようにして「:Q」でのムード的な回帰によって、新劇場版は新訳「Z」のように旧作の悲劇性や主題的な蹉跌(さてつ)をなかったことにして上書きする歴史修正劇にはならず、結果的には「エヴァ」を「エヴァ」たらしめた現実の時代性と同期していたネガティビティを別の形で引き受け向き合い直すための端緒に、かろうじて立ち戻ったのだとも言える。
しかしそのことの代償は大きく、「:破」までの願望充足的な路線を望んでいた層からは大きな反発を呼んだほか、ちょうど旧作TVシリーズで同じ物語展開の際に最終2話を物語として終わらせられなかったときの精神状態をトレースするかのように、庵野総監督自身のメンタルが崩壊。鬱状態に陥ってアニメ制作への意欲を見失い、2013年には完結編「シン・エヴァ」の制作中断を余儀なくされたということが、のちに語られている。
東日本大震災と特撮表現の更新としての「シン・ゴジラ」を経由して
この制作中断が庵野個人の内面的事情を超えて大きな意味を持ったのは、日本社会や文化の現実状況が、2011年の東日本大震災を受けて大きく変わっていった時期とも重なったことだろう。
ちょうど「:Q」公開の4か月前には、庵野としても「館長 庵野秀明 特撮博物館:ミニチュアで見る昭和平成の技」が開催され、庵野が自身の創作者としてのアイデンティティのコアにある昭和特撮のアーキビストとしての活動を開始していた時期にもあたる。つまり、100%の虚構である観念の世界として二次元の映像を純然と作り込んでいくアニメとは異なり、カメラの前に三次元のミニチュアや着ぐるみ、被り物を展開し、現実のノイズや偶然性を映りこませながら虚構を構築していくという実写特撮の表現特性への傾倒を改めて深めていた時期にもあたった。
言うなればそれは、戦意高揚プロパガンダとしての東宝の戦争映画制作にルーツを持つ「ゴジラ」(1954年)以降の怪獣特撮に代表されるように、戦災と核被爆のトラウマを反復しながら戦後日本を想像的に焼け跡に立ち返らせていく映像ジャンルにほかならない。そして東京電力・福島第一原発のメルトダウン事故をともなったこともあって、東日本大震災は「第二の敗戦」とも呼ばれ、まさに怪獣特撮が育んできたカタストロフの表現を実感的に更新していく契機となった。
そのような大震災後の想像力の更新と、「エヴァ」のリメイクに行き詰まった庵野のリハビリ過程が重なっていたことは、「シン・エヴァ」の作品性を理解するうえで無視できないプロセスだったと言えるだろう。
まず、「:Q」直後の2013年に公開された宮﨑駿監督の「風立ちぬ」の主演声優として抜擢されたこと。本作は、関東大震災で波打つ大地のアニメイトなど、まさに東日本大震災後の状況に触発されながら、戦時日本の国家総動員体制をも利用しながらみずからのデーモニッシュな業の追求に耽溺していく航空技術者・堀越二郎の姿を通じて、宮﨑駿がクリエイターとしての自画像を描いてみせた作品だ。
この二郎役への抜擢には、アニメからドロップアウトしかけた庵野のセラピー的な意図もまた多分にあったことが鈴木敏夫などの発言から推察され、庵野本人も「アニメ制作へのしがみつき行為として機能した」と述懐しているが、宮﨑がその自画像的な主人公の具現化を庵野に託したことで、本作は両者における「国民的アニメ作家」の継承儀式となったのみならず、期せずして戦前のメンタリティと戦後オタク文化、ひいては3.11後の「絆」が喧伝される日本の不穏な社会状況との連続性を暴き立てる作品性を強めることになった。
そして、そんな災後リハビリモードの延長線上に転機となったのが、庵野が総監督を、樋口真嗣が監督・特技監督を務めた2016年の「シン・ゴジラ」だったことは言うまでもない。「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)」をキャッチコピーに掲げ、東日本大震災時に実際に日本政府が行った危機管理の動きに取材しながら、「もし現代の日本に巨大怪獣が登場したら」「首都・東京で甚大な原子力災害が勃発したら」というパニック・シミュレーション映画としての迫真性を特撮・VFXによって追求した本作が、新海誠監督の「君の名は。」や山田尚子監督の「聲の形」、片渕須直監督の「この世界の片隅に」といったアニメ映画群、さらには怪獣特撮の別の形の後継者である拡張現実ゲーム「ポケモンGO」の世界的ブームと並んで、2016年の日本カルチャーの歴史的インパクトをもたらしたことは、これまで本連載でも繰り返し言及してきた通りだ。
すなわち、原爆によって屈服させられ、21世紀に至っても国家として自立できない旧い指導者層を俗称「内閣総辞職ビーム」で一掃したうえで、かつてジャパン・アズ・ナンバーワンの幻想をもたらした現場主義的良心に立脚する「ヤシマ作戦」ならぬ「ヤシオリ作戦」で一丸となって原発事故の隠喩としてのゴジラを冷却し続けることで、再びこの国を焼け跡から立ち上がらせたいという怪獣特撮が連綿と描き続けてきた戦後日本人の願望の最新形を、「シン・ゴジラ」は見事に戯画化してみせたのである。
かつて円谷英二に師事したうしおそうじ(鷺巣富雄)の長男である鷺巣詩郎が本作の劇伴を担当し、伊福部昭の遺産を活かしながら「エヴァ」オマージュの楽曲を織り交ぜていったことで、本作は音楽面でも戦後特撮カルチャーの正統後継者としての庵野秀明の存在感を印象づけた。
このように「特撮博物館」以来の積み重ねを経て、庵野は昭和・平成の特撮ノウハウと想像力の棚卸しによって現実を逆照射していく「シン・」ブランドを確立することに成功する。
2つの大震災ショックと「シン・エヴァンゲリオン」
したがって「シン・エヴァ」という映画は、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズの完結編であると同時に、戦後オタクコンテンツの歴史を21世紀にリブートしていく「シン・」ブランドの第2弾という意味性を帯びながら制作されていくことになる。
とりわけ旧作の閉塞感に回帰した「:Q」から一変、開放的な空間で大人になった鈴原トウジや相田ケンスケをはじめ、サードインパクト後の世界で生き残った人々が辛うじて崩壊を免れた仮設集落のコミュニティで肩寄せ合って暮らす第3村での生活が描かれていく物語前半のAパートは、そうした実写的な画づくりが特に強調されたシークエンスであった。
その制作プロセスは、NHKのドキュメンタリーでもハイライトとなっていたように、絵コンテによる事前の画面設計を排しながら、第3村のミニチュア制作や、トウジの家でのモーションキャプチャー俳優の演技をガイドにしながら庵野監督が執拗にアングルを探すなど、きわめて実写特撮に近い工程をあえて交えながら遂行されたものだったことが明らかにされている。そうすることで、アニメという100%の虚構の中に現実が持つ偶然性を取り込み、「自分が想像したものの中からは出てこない」予測不可能性を帯びた表現を獲得しようとしたという演出意図が、再三にわたって強調されている。
そのようにして、まさに絵に描いたような「災害ユートピア」(レベッカ・ソルニット)として構築された第3村は、「シン・ゴジラ」のテーマとして提示された「かくあるべきだった東日本大震災後の日本」像として提示されたわけである。
そんな災後コミュニティの中にシンジや別レイを置き、その心傷や欠落を癒やしていく場として描いた過程は、もちろん「:Q」以降ないし「エヴァ」の制作史全体を通じて庵野秀明本人が経験したメンタルの救済と成長の過程を、きわめて赤裸々に劇化したものであることは間違いない。
そしてこれを社会批評的な主題のレベルでとらえ返すならば、その過程は阪神淡路大震災からオウム事件に向かう閉塞感の中で、セカイ系に帰結する独我論的イメージとしてアニメイトされた1995年的な想念を、実写特撮的な手法で東日本大震災後の社会派的なリアリティに寄せていく2011年的な「絆」の願望によって自己克服しようとした試みでもあったと見ることができる。
つまりは、かたやバブル崩壊を機に1980年代までの戦後日本の繁栄の挫折を決定的にした世紀末のショックを、かたや行財政改革やIT革命や政権交代といったさまざまな変化を経ても一向に衰退に歯止めがかからずにいた新世紀の苛立ちを、戦後最大級の自然災害への危機感によって、ともにリセットしてしまうこと。当時は「もういちど戦後の焼け跡からやり直せるかもしれない」という社会転換の夢想さえもたらした、初期と後期に2つの大震災を経験した多くの平成日本人の精神史的な来歴が、期せずして「シン・エヴァ」には刻まれているのだと言えるだろう。
<後編に続く>
【著者プロフィール】
中川大地
評論家/編集者。批評誌「PLANETS」副編集長。文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門審査委員(第21〜23 回)。ゲーム、アニメ、ドラマ等のカルチャーを中心に、現代思想や都市論、人類学、生命科学、情報技術等を渉猟して現実と虚構を架橋する各種評論等を執筆。著書に『東京スカイツリー論』『現代ゲーム全史』、共編著に『あまちゃんメモリーズ』『ゲームする人類』『ゲーム学の新時代』など。
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