「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」に、シン・エヴァが喪失した“表現の臨界”を見る。【懐かしアニメ回顧録第78回】

今年3月に公開された「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」だが、2か月を経た現在も公開中だ。「シン・エヴァ」は、内容・興行ともに「批判してはいけない」絶賛ムードに染まっているかに見える。旧シリーズの完結編として1997年夏に公開された「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」がどんな作品だったのか再評価するのは、今をおいてほかにないだろう。

消化不良に終わったテレビ版25~26話を、本来あるべき姿にリメイクした映画作品が「Air/まごころを、君に」で、テレビでは明確に描かれなかった「人類補完計画」の全貌が明らかになる……のだが、途中から実写映像が混じりはじめ、映画は具体性を失っていく(手持ちカメラでロケしてきたかのような地方都市の風景は、庵野秀明監督の故郷・山口県宇部市ではないだろうか?)
このコラムでは、ハイクオリティのセルアニメとして完結させることが十分に可能だった「Air/まごころを、君に」に、どうして実写シーンが必要だったのかを検証してみたい。

セルアニメで「肉体」を捨てて、「魂」をひとつに溶け合わせることは可能なのか?


「Air/まごころを、君に」では、人体が溶ける、崩れる描写が非常に多い。ゲンドウの前に立った全裸の綾波は片腕が崩れ落ち、NERV(ネルフ)のメンバーは体がオレンジ色の液体となって弾け飛ぶ。
人体損壊描写の極致は、綾波が同化することで動きはじめるNERV地下の巨人、リリスだろう。白くてブヨブヨした質感で描かれるリリスは、磔(はりつけ)になっていた十字架から降りて、歩きはじめる。両手に打ち込まれた釘を、リリスの手がすり抜ける。釘に手の皮が引っかかり、シワが寄って引っ張られる描写がエグい。顔からマスクがはがれ落ちるときも、まるで肉が腐っているかのように、ズルリと糸を引く。
さらに生理的嫌悪感をもよおさせるのは、巨大な綾波と化したリリス(以下、巨大綾波)がNERVの発令所に現れるシーンだ。巨大綾波の左手が、椅子やコンソールの設置された床、そして床にうずくまっていた伊吹マヤの体を、幽霊のようにすり抜けていく。物理法則を無視した巨大綾波の挙動に、マヤは悲鳴をあげる。

碇ゲンドウによると、人類補完計画は「ATフィールドを、心の壁を解きはなて」「欠けた心の補完。不要な肉体を捨て、すべての魂を今ひとつに」、これが目的らしい。その直前、腕の崩れ落ちた綾波を見て、ゲンドウは「ATフィールドが、お前の形を保てなくなる」とも言っている。
すなわち、肉体の「形」と心の「壁」が、ひとくくりに語られている。キャラクターが形を失うことが、すなわち「魂」をひとつにすることに繋がるのだとしたら、人類補完計画の全貌を描く「Air/まごころを、君に」で、人体損壊描写が続出するのは理にかなっている。


輪郭線の内側を絵の具で塗らなければ、セル画のキャラクターは存在できない


しかし、ゲンドウの理想どおり、本当に人々が「肉体の形を失っている=魂がひとつになっている」かというと、そうとは言い切れない。
なぜなら、セルアニメーションに描かれたキャラクターは、必ず輪郭線で縁どられているからだ。輪郭線の内側を肌色や髪色で塗ることで、セル画のキャラクターは初めて成立する。それが、セルアニメの構造的宿命である。マヤの体を巨大綾波の手が包み込もうと、すべてのキャラクターがオレンジ色の液体として弾け飛ぼうと、必ず輪郭線とトレス線が引かれている。
セルアニメのキャラクターは、肉体の形を捨てることができない。映画の後半、裸のシンジと綾波の体がつながって描かれはするものの、2人の体は輪郭線で包まれているので、やはりキャラクターの形は保たれたままなのだ。

人類補完計画は、何しろ「形を失ったキャラクターたちのひとつになった魂」を描かねばならないので、その描写は抽象的なイメージシーンにならざるを得ない。
前半ではシンジの幼年期の記憶を粗い画像で描いたり、セルではないクレヨンなどの画材で描いた絵を使ったりしているが、巨大綾波がエヴァンゲリオン初号機をのみ込んでからは、無数の映像がサブリミナルのようにめまぐるしく明滅し、脈絡のないセリフが幾重にも重なり、何がどうなっているのか判別がつかなくなっていく。
その果てに登場するのが、実写映像による女性の裸体、映画館、水面や雑踏、電柱などだ。ここにいたると、もはや物語が進行しているか停滞しているのか、解釈不能に陥る。綾波やミサトのコスプレをした人物も登場するが、彼女たちが「本物」であって、セル画のキャラクターは「仮の物」なのだろうか?
実写シーンの後、先ほど述べた裸のシンジと綾波が溶けあっているシーンが出てくる。再びセル画の芝居に戻るのであれば、「現実」を映した実写シーンはどう位置づければいいのだろう? この答えを留保したまま、「Air/まごころを、君に」はセル画のシンジとアスカによって、宙づりのラストを迎える。

無論、ラストシーンでのシンジとアスカは輪郭線で区切られている。セル画なのでそれは当然なのだが、判断不能な実写シーンを見せられた後だと、2人が「ATフィールドによって形を与えられた状態」であることに説得力が加わる。実写シーンには少なくとも、セル画キャラクターの輪郭線は存在しなかったからだ。
蛇足とも思える実写シーンのあいだ、キャラクターどころか、映画そのものが「溶けて」いたとは言えないだろうか。人類補完計画の「人々が形を失い、ひとつの魂」になった状態をセルアニメのフォーマットで描くのに、セルアニメ以外のシーンを挿入するほかに、一体どんな手があるというのだろう?

そこまで純度の高い表現をつきつめた結果が、映画そのものが崩壊せざるを得なかった「Air/まごころを、君に」だったのではないだろうか。だとするなら、これほど誠実な表現が、ほかにあるだろうか?


(文/廣田恵介)

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