総括・「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」(後編)──真希波・マリ・イラストリアスはなぜ昭和歌謡を歌い続けたのか【平成後の世界のためのリ・アニメイト 第9回】

平成から令和へと時代が移り変わる中で、注目アニメへの時評を通じて現代の風景を切り取ろうという連載シリーズ「平成後の世界のためのリ・アニメイト」。

今回のテーマは、2度にわたる公開延期を経て、2021年3月についに公開! 四半世紀にわたる歴史に幕を下ろした「シン・エヴァンゲリオン劇場:||」。

平成を代表する歴史的大ヒット作の完結編を、前後編の2回にわたり、評論家の中川大地が一刀両断する。
(ネタバレも多いので、あらかじめ了承のうえで読み進めていただきたい)

前編はこちらから!
総括・「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」──長すぎた戦後アニメ思春期の終りによせて(前編)【平成後の世界のためのリ・アニメイト 第8回】


「刻の功名」としての大人たちの成熟

2016年の「シン・ゴジラ」を経由したことによる「災後ファンタジー」としての本作のスタンスは、ポスト・エヴァ的イマジネーションの最大の体現者である新海誠監督の「君の名は。」から「天気の子」への流れと対照させるとわかりやすい。

本連載第4回で詳論したように、2019年の「天気の子」は、前作「君の名は。」が東日本大震災にイマジネートされた地方都市の被災を主人公カップルのラブロマンスの悲劇性を盛り上げるための道具立てにしたうえで、それを「なかったこと」にする解決で感動ポルノの具としたという批判を受けたことに対して、律儀なまでに応答した作品だった。

すなわち、「シン・ゴジラ」と同様に今度は首都・東京を気候変動による被災シミュレーションの対象とし、日本社会の安全のために天気の巫女たるヒロイン・天野陽菜を人身御供に捧げるか、東京を水没させてでも彼女を取り戻すかというセカイ系的な問題設定をしたうえで、主人公・森嶋帆高に後者の決断をさせて世間に対する思春期的な反逆のイノセンスを称揚してみせたのが、「天気の子」の結末だ。

ここからすると、「:破」でシンジが綾波の救出を決断したために世界崩壊が起こり、「:Q」での過酷な責任追及を経て、「シン・エヴァ」で社会と交わることによって赦されていくという脱セカイ系的な流れは、あくまでも帆高の選択の免責に終始する「天気の子」とは、見事なまでに対極をなす姿勢で描かれていたことが改めてわかる。

そしてシンジと帆高の対照以上に際立っていたのが、主人公を導くポジションにあたる大人世代の役割の変化だろう。第3村の災後コミュニティでのセラピーと、そこになじんで人間性が芽生えはじめた別レイの消滅を機に、シンジがアスカとともにヴンダーに戻る決断をしてからのBパート以降の物語では、葛城ミサトの真意の掘り下げと行動が焦点となっていくためだ。

旧作当時のネルフ周辺の大人たちは、劇中最もまともな人物として扱われ、謎の究明役である加持リョウジも含め、多かれ少なかれ家庭環境や性愛関係に不全感を抱えたアダルトチルドレン的な不安定さを抱えていたことで、シンジやアスカが追い詰められていく展開の遠因にもなっていた。

こうした旧作「エヴァ」当時のような成熟できない上司像は、「天気の子」では新海誠が自世代の不全感を投影したと思しき須賀圭介の造形にも踏襲されており、組織や社会内での地位や発言力が主人公たちの力になるには低いレベルに留められていることもあって、主人公の克服対象として以上の物語上の役割を果たすことがなかった。

対して「シン・エヴァ」でのミサトたちは、「:Q」時点ではとにかく旧作のムードに近づけるためにかシンジに対する説明不足の理不尽な態度ばかりが強調されていたが、ここで初めて碇ゲンドウのネルフやゼーレの目論見に対して残された人間の世界を守るために、加持の意を受けてヴィレとして決起した背景が十全に語られ、「:破」からの14年分の経過によって、世界の状況への責任能力を持つ主体として成熟していたさまが観る側にも伝わることになる。

これは「シン・ゴジラ」で言えばニューリーダーとしての矢口蘭童率いる巨災対の面々に近い役割だが、作り手・受け手双方のボリューム層が社会の中軸としてのアラフォー世代以上のリアリティを解するようになって、初めて説得的に伝わるようになった描写と言えるだろう。

とりわけ作品外からもたらされた効能として無視できないのが、「:Q」後の制作中断やコロナ禍による遅延という偶然によって、「:序」が公開された2007年から「シン・エヴァ」公開の2021年まで、奇しくも観客側の体感としても劇中とぴったり同じ歳月が流れてしまったことだ。

つまり、もはや旧TVシリーズから「:序」までの12年間よりも長い時間が過ぎており、先に述べたように、たとえば「Zガンダム」に比して新劇場版の始動時点では時期尚早なリブートに思えた「エヴァ」というコンテンツの熟成度合いが、思わぬインターバルの長期化によって深まってしまったことは、怪我の功名ならぬ刻(とき)の功名と言うほかはない。

かくして「シン・エヴァ」は、いかなる虚構上の仕掛けも現実の時間経過の説得力にはかなわないという、「シン・ゴジラ」とはまた別の意味での「現実 対 虚構」のテーマ性を、作品内外のさまざまなレベルで観る者に伝える作品となったのである。

ただし思い返してみれば「エヴァンゲリオン」は、以後の国産アニメのイマジネーションを一変させたという印象に反して、アニメの虚構とその成立土台である現実とを対置させては、常に後者の優越を露呈してきた作品であった。

TVシリーズ時点では、さんざん謎めいた展開できた最終2話をまっとうな物語としては完結させられず、そのことがかえって1990年代の社会状況の中で過剰な謎の考察や同時代への批評としての読み解きを喚起して未曾有の社会現象化を招いたこともしかり。その最初の仕切り直しだった旧劇場版でも、やはり制作が間に合いきらずに春・夏の2度の上映になった挙げ句、最後の最後まで状況から逃げ続けたり、アスカで自慰したりといったシンジの姿をオタクへの悪意ある戯画として描き、庵野秀明へのネット上の誹謗中傷や映画館の観客の姿などを実写ショットとして挿入しては、ラストをアスカの「気持ち悪い」という衝撃的な台詞で締めて現実に還るよう突きつけるメッセージを発したこともしかり。

「エヴァ」は常に、庵野を中心とした制作体制を取り巻く現実状況をその作品内容に露呈させては、「よくできたアニメーションフィルム」としての虚構性を逸脱する体験を観る者に与え続けてきたのである。

そして実際に14年の歳月をかけることで、エヴァに時を止められたシンジ以外の主要登場人物たちが年を取ってそれぞれが大人として成熟した姿の説得力を否応なく獲得してしまったことが、本作で完結を果たした新劇場版4部作の、結果としての特徴になったとも言えるだろう。

もちろんそれが成立するのは、その現実の経過に応答するだけのアニメとしての虚構表現が十分なクオリティでなされているからであるのは間違いないのだが、象徴的に言えばその現実と虚構の関係をまとめあげる調停の手法として、「特撮」由来のノウハウや想像力が随所で駆使されていたことが、単体映画としての「シン・エヴァ」の表現論的なポイントだ。

最も端的なのがAパートでの精巧にミニチュア制作された第3村のシーンであることはこれまで述べてきた通りだが、Bパート以降のミサト率いるヴィレが人類最後の希望を託す船としてAAAヴンダーに結集し、ゲンドウによる人類補完計画の阻止に向かうという展開は、東宝の特撮映画「海底軍艦」(1963年)や「惑星大戦争」(1977年)に登場する飛行艦・轟天号の役割を踏襲したものである。

つまり、汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオン(あるいはジャンルとしての巨大ロボットアニメ全体)のルーツである「ウルトラマン」(1966~67年)以前の特撮メカニックの系譜に回帰することで、初めてミサトたちは旧作では不可能だった自立と成熟の回路を手にしたのだと言える(なお、エッフェル塔をふんだんに使ったアバンタイトルでのパリ奪還作戦も含め、ハイテク潜水艦ノーチラス号が母艦となる庵野のTVアニメ初監督作「ふしぎの海のナディア」(1990~91年)への原点回帰でもあることは言うまでもない)。

そしてネルフへの強襲作戦が敢行されるCパートでの同型艦との攻防を経て矢尽き刀折れたヴンダーは、Dパートで人類補完計画が始まり、再びエヴァ初号機に乗ったシンジと第13号機で迎え撃つゲンドウの父子対決が進行するクライマックスの中、希望の槍カシウスと絶望の槍ロンギヌスに続く第3の槍の材料となり、物語を終局に導くギミックにさえなっている。

そこに加持との間に息子リョウジを授かりみずからも母となっていたミサトのドラマが重なり、彼女自身も抱えていた父との関係の清算と、残された人類の命運をシンジに託すかたちで単身ヴンダーに残り、その脊椎からリツコの協力で作り出したガイウスの槍(ヴィレの槍)を送り届けたミサトは力尽きる。

最後にシンジの背中を押して絶命する役割こそ共通しているものの、従来の戦後フィクションではジェンダー的に壮年男性の役割だった「最終決戦での艦長の自己犠牲」役を割り振られているあたりは、「大人のキス」の性的なロマンチシズムで少年を動機づけようとした旧劇場版の頃を思えば隔世の感がある。

最終的に、新劇場版のリブートを通じて旧作と異なる物語が展開される最大の要因となったのが、ミサトたちの世代の加齢と成熟であり、その具体的なロールモデルとして見出されたのが、思春期的な個の自意識と密着するジャンルとなったロボットアニメ以前の、大人のプロフェッショナリズムの協働として描かれていた艦船特撮ロマンへの回帰だったという点は、本作の作劇のポイントとして意識されるべきであろう。

ゲンドウの終幕、シンジの選択──神殺し/父殺し神話の完遂をめぐって

そのように特撮的な成熟を遂げたミサトたちや、その支えで着実に自立に向かっていくシンジやアスカに対して、唯一旧作の1990年代的なメンタリティのまま取り残されているのが、碇ゲンドウの妄執にほかならない。

使徒と人類の生存闘争の果てにゼーレが遂行しようとしている人類補完計画の内実は、リリスなど世界観の設定面の道具立てが異なるため旧作と新劇場版でかなりの相違があるのだが(これについては後述)、この状況を利用し、人類すべてを犠牲にしてでもゲンドウが亡き妻ユイとの再会を遂げようと執着するというドラマ上の焦点は変わらない。

それゆえ、クライマックスとなるアディショナルインパクトのシーンは、彼のユイへの妄念の表象としてグレートマザー化した巨大な綾波レイが地球のすべてを胎内に呑み込み融合していくという旧劇場版のクライマックスと相同の画面イメージの中で展開していくことになるが、そこにシンジが初号機で介入して13号機のゲンドウとの直接対決に望んだことで大きく展開が変わる。

2人の記憶からマイナス宇宙に構成された虚構世界で繰り広げられる2体のエヴァによる親子喧嘩の舞台は、まるで怪獣特撮のようなミニチュアセットとして3DCG描画された第3新東京市や、撮影所の屋内セットであったことがバレるミサトのマンションの一室など、実写特撮に見立てた画づくりでアニメイトされている。これはTVシリーズ最終2話や旧劇場版でも見られた、作品世界の虚構性を暴露するメタフィクション表現の変奏にあたるが、むしろ手の込んだ虚構のリアリティを現実内に構築していく人の技へのリスペクトをこそ感じさせる映像となっている。ここでもまた、虚構と現実の調停手段としての「特撮」が、「エヴァ」の物語の最もコアにあるゲンドウとシンジの関係を健全化するための回路として見出されているわけである。

かくして父子の衝突は力のぶつけ合いから、旧作以来のシンジの自問の心象風景である列車内での対話へと移行し、互いの理解が始まる中でシンジのもとにミサトが送り出したヴィレの槍が到着。人類自身の手で定められた運命を変えるための神殺し≒父殺しの槍を手にしたシンジの成長を認めることで、ゲンドウはユイとの別離を受け入れ、列車から降りて世界の行く末を息子にゆだねることにする。

そしてシンジはヴィレの槍で、実は初号機に残って見守っていたユイの魂とともに13号機を貫くことで、人類補完計画を中断。まさに絵に描いたようなオイディプス型神話の類型を精神的に完遂したうえで、マイナス宇宙の道具立てを使って「エヴァンゲリオンのない世界」たる「ネオンジェネシス」として世界を再構築するというタイトル回収まで行ってみせ、文字通り少年は神話になってしまう。

このあたりは、2000年代以降のポスト・エヴァ系アニメの系譜の中で、特に虚淵玄脚本の「魔法少女まどか☆マギカ」(2011年)がノベルゲーム由来のループもの作劇との複合で導入していた世界再構築エンドの取り込みにあたる。新劇場版の物語展開の中ではサブプロットの域を出ることはなかったが、旧作では最後の使徒だった渚カヲルが、今度の世界線では終始シンジを幸福にするルートに導くために暁美ほむら的な暗躍をしていたと思しきほのめかしを「:序」の頃から行っていたこととも相まって、後継者たちの想像力を(今となってはそれすらも懐古にあたるが)律儀に取り込み直した姿勢と言えるだろう。

要するに、最後に鹿目まどかポジションにたどり着いたシンジのエピローグは、アスカ、カヲル、レイと、各チルドレンたちを順次旧作以来の「エヴァの呪縛」から解き放っていくものとなり、震災前後でポピュラー化した2000年代末~2010年代前半の水準まで追いつきながら、周回ノベルゲーム的な意味でのトゥルーエンド感にあふれた解決をもたらしていくものになる。

ただし、まどかやルルーシュならば自身が引き受けねばならなかった世界改変のための代償役は、旧世界の事象により責任の大きいユイやゲンドウにゆだねるという構図になっており、親なき世界でみずからが望む秩序の自己責任をシビアに問われたゼロ年代型ヒーローたちの結末と比べれば、責任をとる大人世代が存在感を持っている「シン・エヴァ」の幕の下ろし方はマイルドで牧歌的だ。

このことを社会批評的なレベルでとらえ直すなら、ますます旧来のロールモデルが機能しなくなっている2020年代現在の世界の現実から目を逸らす批判性の後退ととるか、2000~10年代のセカイ系やバトルロワイヤル/デスゲーム系といった流行作劇で過度に強調されすぎた年少世代が抱える世界の悪意と自己責任的な決断への切迫感に対して、改めて大人の責任の果たし方のモデルを作中に埋め込むことで現実の正常化に向けた反時代的な意志を示したととるかは、観る者が置かれている立場によるのだろう。

ネオンジェネシスへの導き手・マリはなぜ昭和歌謡を歌い続けたのか

こうして「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」という、庵野総監督がシンジ役声優の緒方恵美に25年分の本作への思いの吐き出しを求めたさまがドキュメンタリー中でも流されていた最後の台詞を経て、エヴァなきネオンジェネシスの世界が、ポジティブな現実帰還のトーンをもって、庵野の郷里である山口県・宇部新川駅周辺の実写撮影を交えたラストシーンとして描かれていくことになる。

そこにシンジを連れていく物語外の世界への導き手を、旧作にはいなかった第3のヒロインである真希波・マリ・イラストリアスが担ったことについても、やはり触れておかなければなるまい。

彼女が果たした役割が、最終的に現実における庵野のパートナーとして新劇場版の制作中における彼のメンタルの苦境時にも寄り添い続けた妻・安野モヨコの存在感と重なるという私小説的な読解は、NHKドキュメンタリーの演出などもあって、もはや「公式設定」に準ずる認識としてネット言説としても膾炙(かいしゃ)しきっているので、その点をめぐって論評したいことは何もない。

マリが体現した「エヴァ」世界への外部性について、筆者が付け加えたいと思うポイントが1点だけあるとすれば、その担当声優を坂本真綾が務めていたことの意味性であろうか。

エヴァを操縦するチルドレンのひとりでありながら、若き日のユイやゲンドウと同じ研究室にいて世界の事情にも通じる世代でもあり、鼻歌やボキャブラリーでやたらと昭和のおっさん感を醸し出していたマリの快楽主義的な大人感を、ヒロイン役声優の中では最年少でありながら、子役出身で洋画吹き替えのキャリアが長い坂本は、たしかに落ち着いた声音と余裕のある演技でそつなく演じていた。

ただ、それ以上に彼女のキャスティングの妙として感ずるのは、「エヴァ」TVシリーズの翌年に放映されたサンライズ制作の少女マンガ風ロボットアニメ「天空のエスカフローネ」(1996年)でアニメ声優として初主演を果たし、同時にビクターエンタテインメントから主題歌「約束はいらない」でシンガーとしてもデビューしており、「シン・エヴァ」時点でやはり25周年のメモリアルを迎えていたという並行性だ。

こうした坂本の1990年代後半からの声優アーティストとしての活動は、レイ役の林原めぐみがキングレコード所属の歌手としても人気を博し、元祖・アイドル声優として第三次声優ブームを牽引していた中での対抗馬的な動きにあたる。「エヴァ」の商業的ヒットは、当時キングレコードのアニメ系レーベル・スターチャイルドを率いていた大月俊倫プロデューサーの手腕によるところが大きいが、キング所属の声優アイドルたちが基本的に元気な萌えソング系・応援歌系の楽曲傾向でブームのメインストリームを築いていったのに対し、坂本の場合は菅野よう子のプロデュースで極力ベタなアニソンテイストを避け、クラシックや民族音楽、ジャズやシティポップ系のテイストを採り入れた楽曲傾向のオリジナルアルバムをリリースしながら、タイアップ作品もハイファンタジー系やスタイリッシュ系のSFなどを軸にすることで、幻想浮遊系に近いアーティスティックなブランディングを志向してきた点を特徴としている。

その意味では、キング-スターチャイルド系の声優アイドルブームの蓄積によって成立したという側面もある「エヴァ」に対して、オルタナティブとしてのビクター-フライングドッグ系の看板を背負って立ってきた歌姫という坂本真綾のキャリアもまた、旧作世界の外部からの批評者たるマリの存在感を形成するうえで、存外に重要なファクターだったのではないか。

正式な劇伴として林原めぐみが「今日の日はさようなら」「翼をください」「VOYAGER~日付のない墓標」といったフォーク/ニューミュージック系の楽曲をカバーする向こうを張って、劇中のマリに決してサントラ収録されることのない「三百六十五歩のマーチ」「ひとりじゃないの」「真実一路のマーチ」といった歌謡曲を不自然なまでに歌わせまくっていたことの背後には、そんなアニソン系レーベルの来歴にまつわる事情を読み解くこともできるだろう。

奇しくも「シン・エヴァ」公開の翌々週にあたる3月20・21日に横浜アリーナで開催されていた坂本真綾25周年ライブに足を運んだことで、筆者的には改めて、そんなコンテクストを意識させられてしまったのであった。(なお、感染対策で限られた席数のなか、観客たちが熱気を静かに抑えながら真綾さんのメモリアルを祝したこのライブも、もちろん最高であった)

ラストシーンの「声変わり」の意味──宮﨑駿と新海誠の狭間で

さて、話を戻そう。シンジとマリが連れだって「現実」へと駆けだしていくラストシーンには、「エヴァ」の歴史の外部からもたらされた、もうひとつの「声」の問題が存在する。

そう、成長したシンジを演じた、緒方恵美から神木隆之介への「声変わり」である。

実写ベースの穏やかなフォトリアリスティックで描かれた背景、列車が行き交う駅のホームで、かつての友たちが劇中の記憶を持たずに別の人生を送っていると思われるなか、少し大人になって物語の最後に互いを見出す2人。

そのいっぽうの声を充てるのが神木であったとなれば、もうここから連想されるシチュエーションはひとつしかない。庵野秀明が「シン・ゴジラ」で自身最大のヒットを遂げた年、主に若年層の支持で火が付き、さらにその4倍近い興収を記録することになった新海誠「君の名は。」だ。

本稿のここまでの理路に基づいてこのことの意味を読み解くなら、神木が演じた「君の名は。」の主人公・立花瀧が糸守町の被災を「なかったこと」にしたのと同様、「エヴァンゲリオンのない世界」を願ったシンジもまた、たとえば第3村のようなポストアポカリプスの災害ユートピアで新たな社会を築くのではなく、我々が暮らす日本社会の現状に近い日常の安寧に幸福を求めたのである。

言うなれば「国民的アニメ監督」の座が宮﨑駿から新海誠に移行した2016年、その間の世代として「シン・ゴジラ」を世に問うた庵野秀明が、両者の主題的な空隙を遅ればせながらに埋めながら、「こういうのはもう若い者に任せる」とばかりに後進に下駄を預けることこそ、このあまりにも恣意的な「声変わり」から読み取れるメタメッセージにほかあるまい。

「日本のディズニー」を旗印に、理念的にはフルアニメによる動きの生命力によって100%の虚構を創造しようとしてきた東映アニメ的な戦後アニメーションの正統の体現者が宮﨑駿だとすれば、ゲームで育まれたCGやデジタルエフェクト技術などを基盤に、現実の風景を取り込みながら青春のリリシズムを拡張してきたのが新海誠だった。

ゆえにその間に、ミニチュアや着ぐるみで虚構と現実を調停する技術としての「ゴジラ」「ウルトラマン」「仮面ライダー」といった特撮、および虫プロ的なリミテッドアニメの技法に立脚して発展した「アトム」「ヤマト」「ガンダム」といったジャンクなSFミリタリーアニメの系譜の集大成たる「エヴァ」を映画として完結させることで差し挟み、日本アニメの歴史のミッシングリンクを繋いでみせることが、遅れてきた国民的アニメ監督としての庵野秀明の役割だったわけだ。

すなわち、「あの『エヴァ』ですら終わる」という現実を示すことで、戦後日本アニメの長すぎた思春期に幕を引き、時が止まっていたも同然のこの国に、本当の意味で新世紀が訪れるためのお膳立てをすること。つまりは失われた30年としての平成を葬送するというイメージについては、本作は十二分に示してみせたと思う。

ただし、すでに21世紀も1/5が過ぎた現時点にあって、“ネオンジェネシス”を謳いながら、少なくとも5年前には確立されていた新海誠的な現実拡張のイメージの追認にしか辿り着けなかったというのは、さすがに遅きに失していると言うほかはない。

それと向き合うことなしに庵野秀明という作家が一歩も先に進めず、「エヴァ」が「エヴァ」である以上は避けては通れない主題であったことは重々承知ながら、やはり「父」たることや人間同士の関係性をめぐるゲンドウ/シンジの成熟と承認という1990年代的な問題の決着にあまりにも長くとらわれすぎたために、新劇場版は「エヴァ」のリビルドというプロジェクトがもっと先に行けたはずの可能性を、少なからず逸してきた部分もあるのではないか。そのようにも思えてならない。

むすびに──「エヴァ」はいかなる意味で「神話」になりえていたのか

ここまで随所で批判的なトーンを潜ませながら述べてきたように、たとえば第3村の「絆」のあり方や、艦船特撮もの的な協働といった成熟イメージなどは、10年前の震災直後時点の願望に即したものなので、それ以降の日本社会のグダグダや、2016年と2020年の米大統領選などの惨状、そしてコロナ禍で露呈した現実社会の分断を通過した目でかんがみるとき、今となっては本作の問題設定が虚しく見えてしまうのは仕方がない。

どのみちフィクションで描ける理想や夢のほとんどは、人がこれまで積み重ねてきた歴史の中から、それでも現実に拮抗して信じるに足る祈りに似た何かを探り当てることでしかないのだから、5年10年のスパンでは古びて見えるものでも、また別の時宜が訪れたタイミングには新たな輝きを帯びることもあるだろう。

なので筆者が問題にしたいのは、そうしたアドホックな社会批評的時流がつかめているか否かではなく、シンジやゲンドウといった作者の分身を通じての私小説的なドラマや日本アニメの戦後史的な文脈という層の上に、もっと普遍的な神話的思考やSF的な思考実験というレベルでのイマジネーションが、どこまで引き出せていたのかだ。

その次元で「シン・エヴァ」でのリビルドの過程をとらえ直すとき、ひとつ引っかかりを覚えるのが、旧作と比べたときの人類補完計画の意味合いの微妙な改変だ。

ユイとの再会というゲンドウの私的な動機がドラマ上の焦点である点は変わらないため、設定考察系のファン以外にはあまり意識されることはないかもしれないが、「Air/まごころを、君に」時点でのゼーレによる人類補完のイメージは、ゲンドウひとりの心の弱さの謂(いい)ではなく、人類ひいては生命すべてが抱える他者性への恐怖や原初の合一性への回帰といった、ユング的な集合的無意識なり、生と死の境界を越境する対称性の論理なりに通ずる、本質的には普遍的な心性の肥大化として描かれていたものだった。 

ゆえにこそ、それはグロテスクでありながらも甘美さを備えた危うい衝動として劇化されていたのだが、「シン・エヴァ」にはそうしたトーンはなく、あくまでも「裏死海文書」で予言されていたのは、使徒によって人類が殲滅されるか、あるいは使徒を殲滅して人ならざる神の子になるかという二択であり、ユダヤ-キリスト教的な「試す神」が定めた終末論のバリエーションとして説明される以上のイメージ提示がない。

なので、その予言を所与のものとして受け入れているゼーレやネルフが使徒を殲滅して神の子になるほうの予定調和のプログラムを人類補完計画として遂行する(その過程の主導権を握ることでゲンドウがユイを取り戻そうとする)のに対して、その二択を拒否して人類やその他の地球生命の現状のありようを守る選択肢を模索しようとしているのが加持やミサトの興したヴィレであるというふうに、世界の行く末をめぐる対立は図式化されている。

したがって、人の子が神や父からの「自立」を目指すという、近代的なビルドゥングスロマンとしてのドラマの道具立てとしてはシンプルになったいっぽうで、人類補完計画に向けてのセカンドインパクト(海の浄化)、サードインパクト(陸の浄化)、フォースインパクト(魂の浄化)といったプロセスは、あくまでも一般庶民にとっては破滅に向かう災害の拡大としてしか描かれない。

その意味では、終末をもたらすものの原因を冷戦時代の核戦争ではなく震災時の津波のような天災に置き換えただけの、1980年代的なハルマゲドンものの想像力に先祖返りしてしまっているのだとも言えよう(このあたりは、震災後の日本国産のコンテンツの多くが、「焼け跡からの再出発」的なメンタリティに応じた昭和懐古の傾向を加速していったこととも軌を一にしている)。

そして先述したように、父を乗り越え内面的な成長を遂げたはずのシンジがした選択は「エヴァンゲリオンのない世界」、すなわち「エヴァ」の作品世界を成立させている、使徒だのリリスだのゼーレだの◯◯インパクトだのといったフィクショナルな設定がはじめから存在せず、それによって起こった災厄もすべて「なかったこと」にすることだ。

そうすることで当該作品の世界観を特徴づける根幹の理不尽を解消し、現代のリアリティに準ずる「普通の世界」がもたらされて劇中のキャラクターたちが幸福になるといった方向性での落着は、たとえば最後に「鬼のいない世界」で主人公たちの子孫が暮らす「鬼滅の刃」(2016~20年)や、そこまで平和な世にはならなかったが「巨人のいない世界」での人々の共存が模索されていく「進撃の巨人」など、最近最終回を迎えた代表的なバトル漫画のフィクションの終わらせ方とも通底している。

つまりは、「エヴァ」以降に増殖した世界の悪意を特定の理不尽な設定によって寓意的に強調するタイプのエンターテインメントのオチの付け方は、おおむねマイナスをゼロに戻して、極端な不幸の起こらない現実のマシさを噛みしめる……といったものになりがちである。

これは端的に、フィクションの敗北ではなかろうか。

旧作時点の「エヴァ」のラストは、確かに結論的にはメタフィクショナルな現実回帰のメッセージには落ち着いたものの、それが機能したのは死や原初の混沌をめぐる神話的な欲動や妄想を魅惑的な領域としていっぽうではアニメイトしながら、単線的な成熟や克服ではなく、その往還を緊張感あるものとして観る者に味わわせてもいたからである。

こうした個の境界を融解し世界と一体化していくという人類補完計画のイメージは、たとえば富野由悠季がファーストガンダムの時点ではまぎれもなく希望のビジョンとして見出していた「ニュータイプ」像の延長線上にあるものであり、あるいは現実のムーブメントとしてはヒッピーイズムを経由して今日の情報技術の発展をもたらしたアメリカ西海岸のIT思想とも通底し、功罪をはらみながら現実の変革を動機づけるものでもあったはずだ。

ただし、そんな想像力によってもたらされた人々の境界を取り除き解放するはずのインターネット社会もまた、「エヴァ」とほぼ並行するこの四半世紀で、セカンドインパクト後の赤い海のごとく世界を塗り替えていくことに成功したものの、現在では明らかに弊害や限界を露呈している。

そうした現状を踏まえながら、「エヴァ」当初にあった現実と神話的な幻想領域との往還性を、本作の達成である「特撮」的な調停回路によるシンジとゲンドウの関係の成熟と並行しながら現代化する手立ては、はたしてなかったのか。ネオンジェネシスの選択が、単なるマイナスをゼロにする現状受忍であるべきではないとするならば、そうした現実と再び拮抗するための手がかりを、我々は再発掘していくしかないのだろう。

ともあれ、もはや東京五輪2020が、1964年ではなく幻の1940年の再来になりつつあるなか、庵野秀明が長すぎたレースを完走して自身の問題との格闘から解放されたことは、これからの日本文化にとっての数少ない僥倖(ぎょうこう)であることは間違いない。

いまや昭和・平成の想像力を司る稀代のアーキビストとして「シン・」ブランドの担い手になった庵野が、すでにリブートされ尽くしている「ウルトラマン」「仮面ライダー」の二大特撮の再発掘に取り組むことで、どんな見過ごされてきたイマジネーションの鉱脈を見つけ出せるのか。

まさに「平成後の世界のためのリ・アニメイト」を誰よりも正統に担いうる庵野の手によって、果たされなかった「エヴァ」の「先」への道標が、そこから垣間見えてくるという展開を、筆者もまた期待してやまない。

 

【著者プロフィール】

中川大地

評論家/編集者。批評誌「PLANETS」副編集長。文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門審査委員(第21〜23 回)。ゲーム、アニメ、ドラマ等のカルチャーを中心に、現代思想や都市論、人類学、生命科学、情報技術等を渉猟して現実と虚構を架橋する各種評論等を執筆。著書に『東京スカイツリー論』『現代ゲーム全史』、共編著に『あまちゃんメモリーズ』『ゲームする人類』『ゲーム学の新時代』など。

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