「けいおん!」最終回で誰もがドキドキするのは、サスペンス映画の手法で撮られているから――?【懐かしアニメ回顧録第86回】

テレビアニメ「平家物語」の放送が、フジテレビで始まる。本作監督の山田尚子さんの代表作といえば、誰もが「けいおん!」(2009年)を筆頭にあげるだろう。
第1期の最終回「軽音!」は、風邪で倒れた主人公の唯が文化祭のステージへ辿り着いて、軽音楽部の仲間たちと演奏を終えるまでがスリリングに描かれる。「文化祭までに回復して、ステージに立つ」という唯の目標が遠ざけられるのは、妹の憂があれこれと気を回して行動した結果だ。

(1)姉に変装する

唯の担当であるギターを別の部員に任せようと先輩たちが相談しているのを聞いて、憂は思い悩む。思案した末、憂は唯に変装して部室に現れ、姉の代わりにギターを演奏する。そこへ本物の唯が現れるが、まだ風邪が完治しておらず、翌日の演奏まで休むことになる。

(2)ギターを持ち帰る

文化祭当日、唯は回復して部室で仲間と合流する。ところが、その場に愛用のギターがない。(1)の出来事があった後、憂がギターを持ち帰り、姉の部屋に置いたことが原因だ。やむなく、唯は家までギターを取りに帰り、ステージに間に合うように大急ぎで学校へ戻る。

(1)の事件のとき、自分のギターを発見した唯は「こんなところにいたのか」と言っているので、変装作戦は憂の独断だとわかる。(2)で憂がギターを持ち帰ってきたときに、唯は横になって眠りかけている。意志をもって行動しているのは、憂ひとりだけだ。
もう少しシーンを細かく見ていくと、これらのシーンのサスペンス的な側面が浮かび上がってくる。


ひとりで行動するキャラクターを、強いコントラストでミステリアスに見せる


(1)で憂が唯の寝ている部屋を訪ねるシーンは、夕暮れ時だ。窓から夕陽が差し込んでおり、憂の体の半分はオレンジ色に照らされている。憂は心配そうに「お姉ちゃん……」とつぶやくが、そのアップでも憂の顔は半分が夕闇にしずみ、もう半分がオレンジ色の光に照らし出されている。
(2)は回想シーンだが、唯は寝ているので部屋の電気は消えている。そこへ憂がギターを持って入ってくると、廊下の明かりが暗い室内に差し込む。憂の姿は逆光で、顔は暗い色に塗り分けられている。
キャラクターがひとりで暗躍するとき、強い照明を当てることで陰影をつけ、何かをたくらんでいるムードを出す……。これは、サスペンス映画の常套的な演出だ。アルフレッド・ヒッチコック監督の「サイコ」(1960年)で、アンソニー・パーキンスの演じる殺人鬼が密室で行動するシーンでは、画面の下や横に強い光源が置かれている。憂を殺人鬼になぞらえるのはかわいそうだが、ドラマ展開のうえでは「風邪を治してステージに立つ」唯の目標を遠ざけてしまう役割だ。憂が暗躍するシーンをミステリアスに演出するのは、理にかなっている。かわいいキャラクターをかわいく撮るばかりでは、何も伝わらない。


あるアクションを「真上から撮る」ことで、意味が増幅して印象が強くなる


そして、このエピソード「軽音!」には、ほかにも「サイコ」そっくりのシーンがある。
「サイコ」で、殺人鬼は母親に変装して2度殺人をおかす。2度目の殺人シーンでは、階段をのぼってきた私立探偵をナイフで刺し殺すのだが、そのアクションの直前、カメラは天井にすえられる。すると、階段全体を真上から見下ろすアングルとなる。私立探偵に向かってナイフを構えてズカズカと歩いていく殺人鬼の動きが、あけすけに映し出される。まったく隠すところのない大胆な動きが、観客に鮮烈な印象を与えるわけだ。
ほぼ同じアングルが、「軽音!」にも使われている。
風邪から回復した唯は、予告もなく部室に現れて仲間を驚かせる。特に、後輩の梓は心配のあまり「最低です」と唯を責め、へそを曲げて背中を向けてしまう。その背中を唯は抱きしめるのだが、そのアクションがまさしく真上から撮られているのだ。かわいい後輩をやさしく慰める、本来なら照れくさくて隠したくなるような行為を、天井から赤裸々に撮っているからこそ、このカットは視聴者の心の裏側までストレートに響くのではないだろうか。
サスペンス映画であれ、ほのぼの日常アニメであれ、観るものの意表をついて眠っていた感情を呼び覚ますという目的は共通している。ジャンルにとらわれず手段を選ばないからこそ、表現は無限に豊かになるのだ。


(文/廣田恵介)

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