「仕事」としてアニメーターという人生を生きる――ベテラン原画マンの横山健次に、「無理せずマイペースで長く働けるコツ」を聞く【アニメ業界ウォッチング第94回】

「アニメーターは薄給なので、食べていかれない」という話をたまに聞くが、80年代初頭から活躍しつづけている横山健次さんは「仕事」に徹して原画を描きつづけているベテランである。「SLAM DUNK」「ONE PIECE(ワンピース)」といった有名原作のテレビアニメでは、30分間の原画をたったひとりで描いてしまうほどの実績を持つアニメーターだが、その態度はどこか飄々(ひょうひょう)としている。
最近ではオンラインコミュニティも主催しているという横山さんに、アニメーターを「仕事」として長くつづけるコツをうかがってみた。

就職活動の始まるころ、足をケガしたことがきっかけで、アニメの手伝いをやってみた


──横山さんは大学では経営学を専攻していたそうですが?

横山 ええ、横浜国立大学の経営学部に通っていました。野球部に所属していたのですが、練習中に足を怪我して、2か月ほど大学を休むことになってしまったんです。その間、自宅でひとりで寝たまま動けないせいか、「卒業しなくちゃならないし、就職はどうしようかな……」と、あれこれ悩みはじめました。昔、漫画家を目指していたので、もう一度やってみようとひさびさに描いてみたら、あまり絵が上手くなかったんです。4つ年上でアニメーターをしている兄が、「絵の勉強になるから、ちょっと仕事を手伝わない?」と声をかけてくれました。手伝いはじめてみると、「あれっ、意外と面白いな」と、どんどんハマっていった感じですね。かなり難しい絵でも、課題をクリアすると、どんどん進歩していくのが実感できました。最初はロボットが爆発するような簡単なカットを描いてましたが、そのうち人間の芝居も描けるようになりました。

──すると、動画ではなく原画を描くようになっていたんですね?

横山 最初は動画でしたが、上手な原画をいっぱい見て真似をして、1年もしないうちに原画に進むことができました。兄のツテで仕事をもらい、1年ほどタツノコプロの作品に参加して自信がついたので、東映の「銀河鉄道999」の制作担当に電話して売り込みました。「ええーっ?」と驚かれてしまいましたけど(笑)。「いま何やってるの?」「タツノコプロの仕事をしています」と答えたところ、向こうで経歴を調べてくれて、「じゃあ会おうよ」という話になり、東映へ行きました。「いま渡せる仕事はないけど、これをやってみない?」と渡されたのが、「走れメロス」(1981年)の村人たちの踊りのシーンでした。娘たちをいっぱい躍らせたのですが、その仕事が決定的でしたね。ノッて描けたし、「この仕事は自分に向いている」と、はっきりわかったんです。

──その間、大学はどうしていたんですか?

横山 アニメーターの仕事が続いていたので卒業できなくて、5回生になったとき、もう大学は退学しようと決めました。何より重要だったのは、ちゃんと稼げるようになってきたことです。大卒の初任給が16万ぐらいの時代に、月30万ぐらいは稼げていました。駆け出しでこれぐらいの収入なら、上にはもっとすごいアニメーターたちがいっぱいいるんだから、ずっと続けていけると確信しました。その頃もフリーランスで、カット単位の出来高制ですね。当時の相場は今の半分ぐらいですが、それでも十分に稼げました。

──その後、「銀河鉄道999」には参加できたんですか?

横山 はい、その頃には「さよなら銀河鉄道999 -アンドロメダ終着駅-」(1981年)で機械人間が空に巻き上げられるシーンを描きました。ものすごく枚数が多かったのですが、自分なりに遊んで面白い動きをいっぱい盛り込みました。監督のりんたろうさんは「こんな動きはいらねえ」と言っていましたが(笑)、迫力あるシーンになりました。


──特に「こういうキャラクターが好きだから」といった動機はないんですか?

横山 僕の場合、そういう動機は薄いんです。頼まれた仕事を、えんえんとこなしてきただけです。師匠と呼べるような人もいなくて、上手い原画に影響を受けながら、自分なりに研究してきました。

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