メディアミックス爛熟期に生まれた「フリクリ」が喚起する、アニメと漫画の深い関係【懐かしアニメ回顧録第51回】

2019年2月から、バンダイチャンネルやNetflixで「フリクリ オルタナ」と「フリクリ プログレ」、2作品の配信がスタートした。この2本の劇場アニメは、2000~2001年にかけて展開されたOVA作品「フリクリ」の続編だ。
「フリクリ」がリリースされたのは、DVDマガジン「Grasshoppa!」(2001年)でセルアニメ「TRAVA-FIST PLANET」が“連載”されるなど、アニメ作品がほかの映像メディアと積極的に関わっていた時期だ。「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年)をヒットさせた庵野秀明監督が、「ラブ&ポップ」(1998年)や「式日」(2000年)といった実写映画に手を伸ばしていたのも、この頃だ。
庵野監督の右腕として「エヴァ」の副監督を務めた鶴巻和哉が初監督した「フリクリ」にも、メディアを越境した異色の演出が試みられている。

漫画パートで多用される“集中線”効果


ひとまず、「フリクリ」第1話のあらすじを、簡単に追ってみよう。
小学生のナオ太は、兄の恋人だった女子高生マミ美につきまとわれていた。秘密の関係を結ぶナオ太とマミ美の前に、スクーターに乗ったハル子という謎の女が現れる。ハル子はナオ太をスクーターで跳ねたうえ、ベースギターで頭を殴る。
殴られた結果、ナオ太の額には、不気味な角が生えてしまう。ナオ太をつけ回すハル子は、彼の家に家政婦として雇われる。その夜、ナオ太の額から、2体のロボットが出現する。ナオ太の身に起きた異変を感知したハル子は、ベースギターを武器にしてロボットを倒す。

かなり難解なプロットであるうえ、ハル子が家政婦としてナオ太の家に雇われるシーンは、丸ごとすべて漫画のコマとして描かれている。コマの外には「登場人物紹介」や「コミックの発売予告」、「作者へのファンレター催促」、さらには「この物語はフィクションであり、登場する人物、団体等は実在のものとは一切関係ありません」のただし書きまで刷られている。
この漫画パートで際立つのは、キャラクターに向けて何本もの線を引く“集中線”だ。画面奥から何かが迫ってくるシーン、上下左右いずれかに何かが凄い勢いで移動しているシーンなどで使われる、漫画ならではの効果が“集中線”。
そして、この“集中線”が漫画パートだけに使われているのかというと、そんなことはない。


「フリクリ」の世界のベースは、“白い紙”にすぎない


前半でハル子がスクーターで走ってくるシーンのうち、計6カットにわたって白い背景に黒い線を引いただけの“集中線”が使われている。特にナオ太がハル子のスクーターに跳ねられるカットではキャラクターまでモノクロになり、紙に描かれた漫画のようだ。
1967年、大島渚は白土三平の漫画「忍者武芸帳」のコマをそのまま撮影し、声と効果音、音楽さえ入れれば、漫画が劇映画として成り立つことを証明してしまった。
また、1963年の「鉄腕アトム」にはじまるテレビアニメの歴史をふりかえると、初期の頃は漫画を原作とした作品が大半だった。その歴史の中で、漫画の“集中線”は、アニメでは“流線 BG”に置き換えられた。テレビアニメは、その創世記から、紙媒体とのメディアミックス的な関係を結んでいたのだ。

ハル子が“集中線”をバックにナオ太に迫るカットの直前、ナオ太の背後にあった雲が(わざわざ作画で)消えて、背景画はオレンジのグラデーションのかかった白い背景だけとなる。
つまり、「フリクリ」の世界のベースは「白い紙」であり、紙の上にキャラクターが描かれ、色が塗られているに過ぎない。特にプロット上でキーとなる重要なシーンは、あえて漫画調にして種明かしすることで“照れかくしする”――その、どこか本気ではない覚めたポーズこそが、「フリクリ」の魅力であるような気がする。


(文/廣田恵介)
(C) 1999 I.G/GAINAX/KGI

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