好意とやさしさが重荷になることだってある。「バミューダトライアングル~カラフル・パストラーレ~」第11話「この曲は」ゆるふわ感想文

今回のアバンタイトルは、村のお手伝いをしていたカノンが、フェルマさんがおいしそうなひじきパスタを作るという情報を知って、「自分たちにも作ってほしい=食べたい」という意志を伝えるところから始まります。

ここにはたくさんの情報量が詰まっています。人見知りで、パーレル村には何もないと感じる「都会から来たよそ者」だったカノンが、ひとりで村の仕事を任されていること。村の人(シャンテ)と出会ったら、気軽な世間話をするようになったこと。シャンテの荷物が朝摘みひじきだとわかる=村の特産物の特性とシャンテの村での役割を把握しているということ。自分たちもひじきパスタを食べたいというちょっと図々しいお願いについて、シャンテさんに仲介を頼むという気の置けない人間関係を築いていること。ひと言でいえば、カノンがパーレル村という共同体の一員になったことを、1分少々の映像でナチュラルに情報として伝えているのです。「風車の回転は速すぎても遅すぎてもいけない」というフラゼさんの意味ありげな言葉については、いったん情報としてキープしましょう。


ここでカノンが見つけたビー玉のような小さなキネオーブ。我々の感覚では8cm盤のシングルCDみたいなものでしょうか? いや、最後まで見ると、むしろカセットテープやレコードに近いものでした。色合いはカノンの尻尾の色にも似ています。中に入っていたのは、古い映画で歌われた楽曲「シャボン」でした。キネオーブの映像の歌声とともに歌い出すカノンの様子からは、彼女が今でも歌が大好きなことが伝わってきました。ここでオープニングテーマに入ります。無駄のない美しいアバンです。

今回の本編では、ちょっと珍しいシーンがあります。個人情報や著作権の扱いについて意識が低かったアルディさんが、セレナたちに猛烈に怒られるのです。ちょっと厳しすぎない? と思いましたが、自分が悪かったことを認めて、ちゃんと謝れるのが尊敬できる大人のあり方である、という確固たる信念を感じます。アルディさんは「そっか、たしかに。少し考えが足りなかったかもしれない」と素直に謝りますし、逆ギレしたりしません。アルディはパーレル村の首長という立場ですが、年齢を取らない人魚同士の人魚関係は基本的にイーブンであるように見えます。映画館を巡るさまざまな経験をするうちに、ソナタたちはだんだんと村の大人と対等な存在に近づいているのかもしれません。

さて、アルディさんが叱られたきっかけは、カノンの近況とソナタが撮影した映像を、アトランティアのヴェラータさんに勝手に送っていたことでした。ヴェラータさん……アイドルとしてのカノンのマネージャーのようなものでしょうか? 声を聞いてみたら平野文さんが演じるアルディさんのシェルシス(貝殻姉妹)のことでした。そうそういたいた。キャラクターの個体認識を名前ではなく声優さんでするのは、おじさんのよくない癖です。ヴェラータさんは手紙で、カノンにまたオーディションを受けてみないか、と誘います。

この手紙の内容を知って、セレナやソナタは大激怒します。フィナやキャロまでがおこです。激おこです。しばらくこのシーンの解釈を考えていたのですが、やがてすとんと落ちてきました。まずアルディは、遠く離れた村に大切な少女を送り出して、身の回りの品を送ったり何かと世話を焼いているヴェラータさんに共感して、せめてもの情報を伝えています。これはパーレル村の子供たちにとっては、裏切りと感じられるかもしれません。でも、賢くやさしいフィナまでが眉を吊り上げているのには、最初違和感がありました。

ヒントは、ソナタたちがひじきパスタを食べる間の会話にありました。カノンはパーレル村の大事な仲間であることを改めて強調していたのです。そうです。アトランティアからの手紙はパーレル村という共同体からカノンを引きはがし、奪い去ってしまうかもしれない可能性を形にしたものだったのです。大切な仲間であり友達であるカノンが、村よりも都会のキラキラした世界を選んでしまうかもしれない。その可能性、つながり、きっかけを首長であるアルディが運んでくるとは何事か、という怒りだったのではないでしょうか。思わぬ糾弾に弱ったアルディを助けないフェルマも、小さなわがままを言ってひじきパスタをおいしそうに食べるようになったカノンのことを、かわいく嬉しく思っていたのかもしれません。

キャロたちは、友達を奪われるかもしれないことに怒っているのだ、と理解すると、そのあとのシーンはわかりやすいです。カノンが出て行ってしまうかもしれないと知って泣くカプリたち村の小さな子供たち(このシーンでは、ナチュラはやっぱり佐藤亜美菜さんだな、と改めて感じました)に対して、キャロやフィナは「大丈夫、カノンは出て行ったりしない」と勝手に返事をして安心させます。ほかならぬカノンの人生の選択なのに、です。

それは、自分たちに言い聞かせる言葉でもあったのでしょう。5人のつながりについて人一倍思い入れがあるであろうキャロやフィナがガンガン発言して、ソナタが同調する間、リアリストな面があるセレナは言葉を発していないという構図にはゾクゾクしました。

大好きな歌を込めた「シャボン」のキネオーブの存在を黙っていたこと、ひとりで見てしまったことを、カノンは「ごめんなさい」と謝ります。それは歌を歌って誰かに想いを届けること、ステージに対する小さな未練と憧れを仲間たちに隠していた後ろめたさだったように感じました。

映像を見せて、みんなで素敵だね、と笑いあえば、カノンの後ろめたさは泡になって消えていたかもしれません。ですが、ソナタたちに見せようとした古くて小さなキネオーブは、その前に砕け散ってしまいました。砕けたオーブを見つめるカノンの瞳から、理由のない涙がこぼれます。村の狭い人間関係の中で、大好きの気持ちで結びついた友達の言葉が無意識下の抑圧になっている、みたいな展開。ほんとに「カラパレ」でやっていいの!?とちょっと思いましたが、そのあたりはさらりと流すのが本当におしゃれです。だって、そのあとフィナがセレナの寝台に潜りこんじゃうんですよ? 仲間とのつながりが消えてしまうかもしれない予感がして、さびしくなって貝殻姉妹のセレナのところに行ってしまう……という心理について、本編中では一切説明しないのが最高です。

街(という世界にある歌とステージ)に対するカノンの憧憬に、ソナタだけはうっすらと気づいていました。村の大人たちは全部わかったうえで黙って見守っているように思えましたが、レジェさんにはちょっとミスリードを誘う発言もありました。なんでもわかるように思える大人だって、間違えることもある……という流れが、冒頭、間違いを見つめるアルディの姿に重なります。

そして、正しいと信じていることが間違っていたと気づいたら、認めて謝ることができる、という村の規範としてのアルディの姿を、子供たちはちゃんと見ているのです。心を閉ざして、村に運ばれてきた時と同じように結晶化してしまったカノンの姿を見て、何かがカノンを追いつめていたことに気づいたフィナたちは、だんだんと認めたくない答えに近づいていきます。

そこで、反対側に向けて一直線になってしまうところが、ソナタたちがまだまだ子供なところです。「パーレル村にいるのがつらいなら、アトランティアに帰してあげるべき」と勝手に──そう勝手に決めるソナタたちに、それを決めるのはカノンである、というシンプルで唯一の答えを返せるから、アルディはパーレル村の首長なのでしょう。

ヴェラータに手紙を書くアルディ、結晶化して眠り続けるカノン。次回が最終話です。

(文/中里キリ)

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