敵味方のロボット・デザインの差異を無効化する「ブレンパワード」の革新的なメカ描写、君は気がついているか?【懐かしアニメ回顧録第60回】

今月2019年11月29日(金)から、富野由悠季監督の最新作、劇場版『Gのレコンギスタ Ⅰ』「行け!コア・ファイター」が公開される。そんな富野監督作品の中でも、ガンダムシリーズと無縁で、なかなか顧みられることの少ないテレビアニメが「ブレンパワード」(1998年)だ。

オルファンという超大型遺跡が海底から浮上。その影響で地上が天変地異に見舞われた近未来。地球を犠牲にしてオルファンで宇宙脱出を目指すリクレイマーたちと、彼らに抵抗する巨大空母ノヴィス・ノアとの戦いを描く。
オルファンに搭載された敵側の巨大ロボットたちをグランチャー、ノヴィス・ノアに編成された味方側のロボットたちをブレンパワード(略称:ブレン)と呼ぶ。いずれも股間部に相性のあうパイロットを乗せるが、自分の意志で動く生体メカだ。ガンダムシリーズに登場するモビルスーツのように内燃機関と機械的な関節で動く兵器ではなく、積層構造の幾何学的な筋肉を持つ、軽くてデジタル的なメカニックだ。
富野監督が斧谷稔名義で絵コンテを切った第6話では、女主人公の宇都宮比瑪(うつみやひめ)の乗ったブレンパワードが、水没したビルの陰に隠れながら低空でグランチャーに接近、ブレンの浮かんだすぐ真下の海面が目に見えない振動波で波立つなど、「エンジンとロケットで飛ぶ」旧来のロボット兵器とはひと味もふた味も異なる戦術、軽くて清潔感のある挙動で、独特の魅力をかもし出している。

ただ、ひとつ大きな問題がある。ブレンパワードとグランチャーはいずれもアンチボディという遺跡メカなのだが、外見が似ており、即座に敵味方を見分けられない(敵味方の対立図式が把握しづらい)のだ。これは、ロボットアニメとして致命的な欠点ではないだろうか? 第1話を見てみよう。


色も形もそっくりなグランチャーとブレンを、どう差別化するのか?


「平和な暮らしの中に敵ロボットが出現」

「味方ロボットが迎撃、苦心の末に敵ロボットを倒す」

「かろうじて目の前の脅威が去り、次の戦いに備える」
……この三幕構成を「機動戦士ガンダム」も用いていた。そこには味方ロボットの初陣と英雄としての目覚めが、印象深く描かれていた。

「ブレンパワード」の場合も、第1話は天変地異に襲われる日本が、何よりも最初に描かれる。ブレンパワードやグランチャーが出現する巨大円盤“プレート”の後ろで火山が噴火している様子が2カット描かれ、2カット目ではプレートと火山の間から、2機のグランチャーが飛んでくる。1機には男主人公の伊佐未勇(いさみゆう)、もう1機には女性の相棒であるカナンが乗っている。プレートを回収する2機のグランチャーを見て、軍人たちは「アンチボディだ。グランチャータイプだな」「あんなのが本当に海の中から出てきたのか?」、「あいつらプレートを運んでるぜ」「なんて連中だ」と会話する。
すなわち、火山を噴火させるなど天変地異と関連しているのは(グランチャーではなく)プレートであると構図で示唆し、さらに会話ではプレートを回収している公の存在がグランチャーなのだとわからせている。つまり、グランチャーは「平和な日常を破壊する悪のロボット」としては描かれていない。これが、敵味方の対立図式を見えづらくしている第一の要因だろう。

さて、別の日の夜。プレートが海面を跳ねるように飛んできて、船と橋を破壊する。主人公の比瑪は、孤児仲間の子どもたちと一緒にプレートから逃げる。ほかの避難民たちも「プレートだ」「こんなところにプレートが出るのか?」と怯えている。この危険なプレートからブレンパワードが出現するため、ブレンは「平和な暮らしを守る善のロボット」には見えないのだ。

プレートから逃げ続けていた比瑪は、「これ以上来て、どうするつもりなの?」と反発し、その言葉が合図のようにプレートが倒れ、ブレンパワードの胴体が構成されていく。比瑪と子どもたちの会話は「グランチャーってやつができたんだ」「グランチャーっていうのと違うわ」と、グランチャーとの差異をめぐるものになり、ブレンパワード出現の場を訪れた勇も「グランチャーじゃないぞ」と、外見が異なっていることをくどいまでに強調する。
ここで視聴者が留意すべき情報は、色も形もそっくりなグランチャーとブレンパワードが「別のもの」である事実であって、どちらが善だとか敵だとかいうロボットアニメ特有の抽象的な対立概念は、第1話には見られない。


比瑪のブレンパワードと勇のグランチャー、同じ色をしているのは何故か?


しかし、ブレンパワードに乗り込んだ比瑪には、危機が訪れる。
「そのアンチボディから離れなさい」と警告する消防隊員、「すぐ降りなさい」とグランチャーから話しかけるカナンが、比瑪とブレンの親密な関係を壊そうとする。彼らに抗う比瑪は、ブレンを「やさしい目をしている」「生まれたばかりの赤ちゃん」と呼び、その内部の感触を「ポカポカしている。すべすべしているのに、やわらかいなんて」と表現する。これらの台詞は、すべて比瑪の主観にすぎない。ここで危機にさらされているのは、比瑪の得た「やさしい」「やわらかい」などの好意的な感触であり、ロボットアニメ的な正義や善ではない。
比瑪と子どもたちを運ぶブレンパワードは、移動中に街灯を倒してしまい、近くにいた避難民は「来たぞ」「声出すな、声」と逃げまどう。守護されるべき一般の人々からすれば、グランチャーもブレンパワードも同じような脅威でしかない。だが、比瑪は一方的にブレンに親近感を抱いており、彼女の好もしい感触を守ることが第1話では最優先されているのだ。

さらに言うと、第1話で敵味方の図式が曖昧なのには、もうひとつシリーズ構成上の事情も作用している。グランチャーに乗っている勇とカナンは、自分たちの所属するオルファンへの不信感から空母ノヴィス・ノアに寝返り、それぞれ自分専用のブレンパワードを得る。その展開が待っているため、第1話では勇とカナンを悪人として描くことはできず、従ってロボット同士の決定的な戦いも起こり得ないのである。
つまり、デザインや作劇の都合から「ブレンパワード」第1話には「敵味方のロボットが正面から戦う」爽快感が欠落してしまっている。しかし、第3話では勇の青いブレンパワードが津波を食い止めて、子どもたちを救う。敵組織の一員だった勇が単独行動し、ブレンの力で英雄的な活躍をする。人と人、人とメカとの関係が仕切りなおしを繰り返すことで、事態が改善されていく――「ブレンパワード」の物語構造の前に、たとえばガンダムとザクのように政治的な立場の違いや歴然としたスペックの差は、意味を成さないのである。
したがって、第1話で勇の乗っていたグランチャーと、比瑪の乗っていたブレンパワードが同じベージュ色だったのはミスではなく故意と考えるが、いかがだろうか?


(文/廣田恵介)

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