殴られた巨大ロボットに、果たして痛覚はあるのか――? 「マクロスF」屈指の名シーンに学ぶ【懐かしアニメ回顧録第94回】

現在、宝塚市の市立手塚治虫記念館で、「超時空要塞マクロス」シリーズを特集した企画展が催されている。2008年にテレビ放送された「マクロスF」は、「超時空要塞マクロス」(1982年)と同じ世界観の物語だ。
「マクロス」では巨人族ゼントラーディと人類との戦いが描かれたが、続編「マクロス7」(1994年)以降、ゼントラーディ人の一部は小型化技術によって人類と共存していることが明らかになり、なかには巨大な身体のまま暮らしているゼントラーディ人もいる。
「マクロスF」の主人公アルトの所属する民間軍事プロバイダー「S.M.S」には、女性の巨人族(メルトランディ人)であるクラン・クランが、兵士として働いている。クランは日常生活では人間サイズ、戦闘時には巨人サイズに戻って戦うが、面白いのは第9話「フレンドリー・ファイア」だ。

巨人族が、同サイズのロボットを涙ながらに平手打ち! 巨大ロボに痛覚はあるのか?


クランの幼なじみ、ミハエルは過去に亡くした姉のことを思い出して動揺し、戦闘中に友軍機のアルトを誤射してしまう。アルトと殴り合いの大喧嘩になってしまったミハエルは、得意の狙撃の腕が鈍ってしまい、スランプに陥る。クランはミハエルを心配して、彼の訓練している場所を訪れる。
このシーンで、クランは巨人化して宇宙服を着ている。訓練中のミハエルは、愛機の可変戦闘機「VF-25G」をバトロイド(ロボット)形態に変形させている。したがって、クランとVF-25Gは同サイズだ。
「お節介なら勘弁してくれ、クラン。相手する気分じゃない」と、ミハエルは素っ気ない。「多分、寝つけないのは一人寝が寂しいせいかもな」「それとも何、クラン。お前が今夜、相手をしてくれるとでも言うのか?」などと、クランをからかう。立腹したクランは、ミハエルのVF-25Gを平手打ちして、その場を立ち去る。
……ミハエルを平手打ちするのではない、「ミハエルの乗ったロボットの顔面」を平手打ちするのだ。VF-25Gのコクピットは胸部にある。したがって、VF-25Gの顔を殴っても、ミハエルにダメージがあるとは思えないのだが、殴られたVF-25Gは頭をふり、殴られた頬を左手で押さながら「何すんだよ!」と怒る。「巨人族の女性と同サイズの巨大ロボットとのいさかい」という、前代未聞のドラマが展開するのだ。
このシーン、初代テレビ版「マクロス」を視聴していたファンなら、ピンと来るものがあるのではないだろうか? 初代「マクロス」で、すでに巨人族と巨大ロボットの殴り合いが描かれていたのだ。


軽薄にオーバーアクションするVF-25Gは、ミハエルの被った“仮面”として機能する


「超時空要塞マクロス」第10~12話では、巨人族ゼントラーディの戦艦に主人公たちが捕らわれてしまう。ゼントラーディ人の価値観や小型化技術を確立していることが明らかにされる重要なエピソードだが、ゼントラーディ人と主人公たちの乗る巨大ロボット(VF-1バルキリー)との格闘が大きな見どころだ。
3機のバルキリーが敵艦に潜入するが、ゼントラーディ軍の司令官ブリタイはみずから格闘を挑み、素手で2体のバルキリーを倒してしまうのだ。残った1機のバルキリーは敵兵士から奪った巨人サイズの軍服を着こみ、ゼントラーディ人になりすまして脱出しようとする……まるで「ガリバー旅行記」のような豪快なシーンが続く。
巨人族に対抗するために、同サイズの人型ロボットを兵器として開発する。そのバカバカしくもSFマインドにあふれたアイデアが、ほかのロボットアニメにはない「マクロス」ならではの面白さだった。ただし、旧作の第10~12話でのゼントラーディ人とバルキリーの格闘、バルキリーの変装には、必ず小さなサイズの非力な主人公たちが対比されていた。そこで当たり前のように描かれている出来事が、小さな人間たちが驚いたり怖がったりすることで「異常な事態」としてとらえなおされ、わかりやすい面白みを生んでいたわけだ。

ところが、先にあげた「マクロスF」第9話はどうだろう? このシーンでは、苦悩するミハエルを心配したクランが彼の軽薄な態度に立腹し、彼の乗るVF-25Gを平手打ちして去っていく。クランの怒った相手はミハエルなのだが、ミハエルの顔は一度たりとも画面に映らないのだ!
しかし、物語を追っていけばわかる。ミハエルは亡くした姉のことを思い出し、仲間を誤射してしまって動揺している。クランが指摘したとおり、眠れないほど悩んでいる。しかしクランの前では、ミハエルは強がって弱味を隠そうとする。そのための“仮面”として、巨人ロボットであるVF-25Gが使われているのだ。その証拠に、クランをからかうVF-25Gは彼女を指さしたり、大げさに両腕を広げたり、いちいちオーバーアクションだ。何かを隠すとき、人は雄弁になる。
また、河森正治総監督が「マクロスゼロ」(2002年)から「創聖のアクエリオン」(2005年)にかけて追求してきた、手描きの作画並みに生き生きと動くCGアニメ技術が本領を発揮したシーンでもある。苦悩を隠すため、オーバーに感情表現するロボット……あらためて、そのずば抜けた名演技、たぐいまれなCG技術を見直してみてほしい。

(文/廣田恵介)


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