【実写化映画、大検証!】第4回「G-SAVIOUR」──食糧危機、懐古ムーブメントなど現実を先取りしつつ、トミノイズムも濃厚に継承した黒歴史(?)の初実写ガンダム!

空前のアニメブームを迎えている令和・ニッポン。実写映画の世界でも、アニメ原作、漫画原作モノが、以前にもまして存在感を増しつつある。

そのいっぽうで、アニメ原作、漫画原作モノ実写映画というと、「あ~、実写化ね……」という、ある種の残念な印象を抱いている方も多いのではないだろうか。

しかし! 本当にアニメ、漫画を原作とする実写映画はガッカリなものばかりなのだろうか!? 周りの意見に流されて、ろくに本編を観ないままイメージだけでネタにしてないのかい!?

ということで、過去に物議を醸したアニメや、漫画原作モノ実写映画を再評価してみたい。

第4回 G-SAVIOUR

今回のテーマは「G-SAVIOUR(ジーセイバー)」。ロボットアニメ「機動戦士ガンダム」から始まるガンダムシリーズの中ではかなり珍しい実写化であり、日本とカナダで共同制作された、2000年の作品である。では、40年を越える歴史を持つガンダムシリーズには、なぜ実写化がほとんどないのだろう?

人型兵器・モビルスーツが激しい戦いを繰り広げるのがガンダムシリーズ。人気も高く、これまで社会に与えた影響も少なくない。封印したい過去を指す「黒歴史」は、元々ガンダムシリーズの用語だし、ある程度の年齢の世代では、作中の名台詞が当たり前のように通用する。モビルスーツの立像は日本各地に増えていき、2021年には上海にもフリーダムガンダム立像が登場して話題を呼んだ。

ガンダムシリーズ実写化への動きは過去にも存在し、噂が出ては消えを繰り返していた。最近は、ガンダムの版元であるサンライズと、「ダークナイト」や「名探偵ピカチュウ」といった作品で知られるレジェンダリー・ピクチャーズが製作する実写版──通称「ハリウッドガンダム」がNetflixで配信されるという発表があり、話題を呼んだ。

ハリウッドなら安心と思いきや、シリーズを追い続けているファンの中には「実際にこの目で見るまで信じられない!」という声も上がる。なぜかというと、ハリウッド映画化の噂なら40年ほど前にも持ち上がり、いつのまにか立ち消えになっているからだ。この時は、未来的メカの巨匠、シド・ミード氏が「Zak’s Attack Gundam World」というイメージボードを描いている。宇宙コロニーを襲う緑のモビルスーツ、ザクの姿を見て期待をふくらませた人も多いのではないだろうか。ミード氏は後に1999年の「∀ガンダム」でおヒゲのガンダムをデザインしてガンダムファンの度肝を抜いており、ただ一度の頓挫で全てがダメになるわけではないこともわかる。

とはいえ、ガンダムと実写の取り合わせを禁忌とする感情がファンの間に漂っているのも確かだ。これ自体は人気コンテンツの実写化にはよくあるものだが、ガンダムの場合は実例が存在している。1996年のPlayStation用ゲーム「GUNDAM 0079 THE WAR FOR EARTH」がそれで、本作では外国人俳優とCGで「機動戦士ガンダム」が表現された。

実際の映像を見ると、宇宙船の中で兵士が登場するシーンなど、実写の俳優とCGによるSF的光景を自然に組み合わせるのは大変であることがわかる。そして、原作では颯爽たる仮面の貴公子であったシャアは、実写になるとふくよかな二重顎の福々しい姿になった。ここからは、アニメ・マンガ的なデザインのよさを現実世界で再現する困難さが見えてくる。そうした意味で、SF作品かつアニメ作品であるガンダムは、二重の意味で実写化が難しいともいえる。

こうしてファンの間では、ガンダムと実写の組み合わせをタブーとする考え方、ガンダムシリーズの原作者である富野由悠季氏が「∀ガンダム」で開発した単語を借りるなら「黒歴史」とする認識が醸成されたのである。

それでもガンダム実写化への願いは消えることがなかった。これが映像化と別の方向で表現されたのが、近年あちこちに登場する実物大ガンダム立像である。

ガンダムを自由自在に動かせるアニメから別メディアに持ち出すのは制約が大きい。それでもアニメ以外にガンダムを求めるニーズとは「あのカッコイイガンダムを、できるだけ原作に近い姿・大きさにしたものが見たい。動くなら最高だ」ということ。言い換えるなら「ガンダムにもっと多くの情報量を与えたい」というファンの願いが昔からあるということで、実写化のみならず、実物大ガンダム立像として表現されたわけだ。

福岡の「RX-93ff νガンダム」は、新規設定された武装を持つうえに、24.8mの巨体が動き、観光スポットとして多くの注目を集めている。前述した黒歴史感などなんのその。やはりファンは、より情報量が多いガンダムを求めて続けているのである。

そもそも「機動戦士ガンダム」自体が、ロボットアニメに情報量を増やすことで人気を博した作品だった。アニメで描かれる以外にも戦場は広がり、そこでは無数の人々が戦う。敵味方の勢力は政治的・思想的な背景を持ち、やむなく戦争に突入した。モビルスーツにも開発史があり、情熱を燃やす人々がいる。

そして後付け設定により、作中の架空史「宇宙世紀」やモビルスーツ開発史、これに乗り込むパイロットたち、歴史の陰に隠れた秘話などの情報量は増え続け、歴史ロマンの様相を呈している。リアルタイムで追っていた人はともかく、この歴史を今から履修するのは一苦労なほどだ。

現在放送中のシリーズ最新作「機動戦士ガンダム 水星の魔女」のプロデューサー・岡本拓也氏は、10代の若者から「ガンダムは僕らの世代に向けたものじゃない」と聞いたという。アップデートを続ける娯楽作品に対して、少なからずショッキングだが率直な評価だ。こうした忌避感には、43年を経てふくれあがった情報量が、少なからず影響を与えているのは間違いない。

しかしながら「機動戦士ガンダム 水星の魔女」は、題にガンダムを冠しつつ、前述したような10代の人々にも好評だ。その理由のひとつは、宇宙世紀から脱却しつつ、義肢やスタートアップ企業といった現代的なエッセンスを散りばめた、ここから情報量を増やしていく新世界を作ったことであろう。大人が作り出した状況の中で、少年少女たちが自分の道を模索するという基本構造を「機動戦士ガンダム」から引き継ぎつつ、そうした様がより現代的に表現されているのである。

そして、肝心の「G-SAVIOUR」の話もせずにここまで行を重ねていることに、読者諸兄は首をひねっていることと思う。こうして語り続けること、語り続けられること、語り続けなければならないこと自体、知らない人がガンダムに忌避感を抱く構造そのものなのだ。

■今こそ再評価したい、時代を先どったSF設定の数々

このように、ガンダムと実写の組み合わせは、タブー視されてきた面が強いが、実は2000年に一度、外国人俳優とCGによる映像作品「G-SAVIOUR」が公開されている。原作無視、黒歴史と言われることもあるが、実は「機動戦士ガンダム」から始まる宇宙世紀のかなり先の時代をオフィシャルで描いているのに加え、トミノ的、ガンダム的なエッセンスも色濃く香る作品なのだ。

本作の舞台は宇宙世紀223年。第1作「機動戦士ガンダム」から144年後の世界だが、地球の高圧的なエリートと、これに虐げられる宇宙移民が相変わらず対立している。宇宙移民がスペースコロニー(本作には、かつてのコロニー=植民地という呼び方には差別意識があるとして、セツルメント=入植地と改めた設定があるが、本稿ではスペースコロニーという一般名詞としてのわかりやすさを優先して、あえてコロニーと呼ぶ)で暮らすいっぽう、地球は食糧危機に見舞われており、これを打開するため、深海で農業をするための研究が進められている状態だ。

そうした研究に携わるのが、主人公であるマーク。もとは地球の軍(議会軍)に所属するエースパイロットだ。今は戦いを忌み嫌っているが、その名は一般兵にも知られている。軍のお偉いさんであり、本作の巨悪であるガーノー総督からも戻ってくるよう乞われるほどの人物だ。

そんな中、宇宙移民のグループがマークの勤める研究施設に忍び込んできた。グループは軍に捕らえられたが、その目的は皆目見当が付かない。ガーノー総督から直々に頼まれたマークは、グループのリーダーであるシンシアを尋問するが、そこで驚くべき事実を知った。軍は食糧危機を解決できる生体発光という技術を独占しようとしている。そしてシンシアは、生体発光のキーを取り戻すためにやってきたというのだ。

マークは人道的な見地からシンシアに協力するが、それは軍に逆らうことである。彼は軍からあることないことでっち上げられて、凶悪犯罪者に仕立て上げられてしまった。マークは軍を裏切ってシンシアたちに協力することを決め、追っ手から逃れるために宇宙へ旅立つのだ。

「機動戦士ガンダム」から続く時代では、「地球の環境破壊」と「環境を再生させるための宇宙移民」がテーマとなっているが、本作で問題となるのは食糧危機。今日食べるものがないわけで、事態はより深刻になっている。

食糧問題はこれまでのガンダムであまり論じられてこなかったテーマである。本作が公開された2000年当時、過激なガンダム原理主義者たちからは「ガンダムは環境破壊の問題も描く社会派アニメなのに、わかりやすい食糧危機に話をすり替えてどうする」「原作からの逸脱」「考証がなってない」という声が出たのも確かだ。

しかし、その後2014年の「ガンダム Gのレコンギスタ」で、ガンダム側が本作に追いついた。「Gのレコンギスタ」は宇宙世紀から後の時代が舞台。「かつて食糧難で人類が絶滅寸前になり、人が人を食うまでに至った時期がある」とする裏設定がある。もちろん、この設定を考えたのはガンダムの原作者である富野氏だ。

「G-SAVIOUR」は、その14年も前に宇宙世紀の行く末に食糧危機があることを言い当てていたわけで、ある意味予言の書だ。宇宙世紀を考えていったうえで富野氏と同じ結論に達したのだから、「考証がなってない」どころか、全く正しかったわけだ。当時生意気言って本当にすいませんでした。

そして、読者諸兄ならお気づきと思うが、先に書いたあらすじからは富野氏っぽさが濃厚に匂い立っている。すぐれた戦士として影響力を持つ主人公。敵側の女性から、これまで信じていたのとは違った現実を知らされる。これをきっかけに、自分が属していた勢力を裏切り、女性側の勢力に身を投じる。その結果、圧倒的な力を持つ勢力に追われて小さな船で逃げる。

最もよく似ているのは、異世界転生+ロボットものを1980年代にやった富野氏の野心作「聖戦士ダンバイン」だろう。上記した「G-SAVIOR」の特徴は全て「聖戦士ダンバイン」に当てはまるのだ。主役格の人物が所属勢力を変えるのは富野氏の作品によく見られる特徴だし、主人公が船で逃げるのは氏の得意パターンである。本作の話作りに日本側のアイデアがどこまで反映されたかは不明だが、富野氏っぽさが漂っているのは確かなのだ。

マークは宇宙船であちこちのスペースコロニーを逃げ回っていく。ガンダムシリーズで「フロンティア」と呼ばれた「サイド4」(地名。サイド=スペースコロニーの集まり4番目、くらいの意味)は、本作で「ニューマンハッタン」と名が変わり、これまでサイドが7までだったところに、新たにサイド8「ガイア」が加わっている。

ガンダムシリーズのサイドには「ザーン」「ハッテ」「ムンゾ」「ムーア」といった、現代の特定都市とは無関係の名が付けられている。そこには宇宙へ移民し、新天地を作る意気込みがうかがえる。しかし、「ニューマンハッタン」というネーミングには地球っぽさというか、ガンダム世界をアメリカと地続きにしたい感が見て取れる。アメリカナイズという実写化あるあるとも取れるが、この時代にかなり大きな懐古ムーブメントがあったとも妄想できる。

また「ガイア」とは大地母神、母なる地球のこと。地球政府から棄民同様の扱いをされる宇宙移民たちが付けるには少し奇妙というか、地球を懐かしむようなニュアンスも見て取れる。「地球側が強権的に名付けさせた」とも、「宇宙移民たちが環境汚染の進む地球に見切りを付け、大地母神ガイアの魂を宇宙に移す意味で名付けた」とも取れる。

ガンダムシリーズ本編では、スペースコロニーが変わっても文化にそこまで差はなかったが、本作では別の国か惑星かというくらいに文化が違う。特にガイアは、コロニーのあちこちが豊かな植物に包まれ、ローブ風の服に身を包んだ人々が行き来するエキゾチックな場所となっている。こうした描写から、本編の物語も「地球の人と宇宙移民の軋轢」というよりは「欲にかられた地球と平和なガイア星の戦い」にも見えてこなくもない。

富野氏がガンダムシリーズで描いたのは、地球の人と宇宙移民という、本来は同じである人間たちが争う愚かさだ。これに対し、「G-SAVIOUR」は宇宙のあちこちで異なる文化を持つ人々が争う、いかにもSF映画っぽい感じになっている。日本とカナダの感性の違いが出ているとも、時代が進んで文化が独自発達した描写とも取れる。

■海外流に解釈したガンダム世界のお約束

マークを追う議会軍の制服は、黒をベースに赤色がまぶしいものとなっている。ありていにいうなら「機動戦士Zガンダム」に登場した急進的地球至上主義者「ティターンズ」の制服に似ているのだ。地球至上主義という共通点があるにしろ、136年も前に政争に敗れた急進派っぽい制服を着るというのは結構な事態。あえて現代に例えるなら、先行き暗くなった国の軍隊がナチスっぽい制服を採用するといったところだろうか。先の「ニューマンハッタン」なる懐古調なコロニー名とも整合性が取れており、もう行き詰まってどうにもならなくなった地球圏の雰囲気を描写するというコンセプトなのかもしれない。

そして、マークが逃げ回りつつ物語は進むのだが、視聴者が見たいモビルスーツはチラチラと姿が出てくるばかり。主役機であるGセイバーの出番も遅く、本格的にバトルするのは全90分中70分ほどが過ぎてからなのだから、なかなかに焦らしてくれる。

Gセイバーは、人類の行く末を見守る超国家的秘密組織「イルミナーティ」で開発された超高性能機。「イルミナーティ」の一員であるフィリッペが、エースパイロットであるマークに対し、地球の圧政に抗う象徴としてのGセイバーを託している。このあたりは「聖戦士ダンバイン」において、聖戦士(すぐれた力を持つ、今でいう異世界転生者のようなもの)である主人公・ショウに対し、作中の権力者たちがダンバインやビルバインといった新鋭機を託して戦いの象徴としているところとも似ており、ここにも富野氏っぽさが漂っているともいえる。

そして、Gセイバーの初出動はなんと宇宙のデブリ(残骸、ゴミ)掃除だ。マークが乗った船は、移動中デブリ帯に突っ込んでしまった。この危機を切り抜けるにはGセイバーが必要ということで、マークが搭乗して主役機がついに起動。デブリをビームサーベルで切り裂き、事なきを得ている。モビルスーツを使ってわざわざゴミ掃除するのかと思われるかもしれないが、先の食糧問題と同様、「機動戦士ガンダム」側が本作に追いついている。本作と同時期の「∀ガンダム」にはモビルスーツを使ってお洗濯する素敵なシーンがあるし、14年後の「ガンダム Gのレコンギスタ」には、「エネルギーを運ぶ人類にとって大事な船のため、敵味方のモビルスーツが戦争をひとまず中止してデブリ掃除に励む」という展開がある。技術をどう使うかは人の心がけ次第。モビルスーツも兵器であると同時に技術であり、その有効性を測る物差しは戦果のみではない……とするのが富野氏イズム。そうした意味において、本作では主役機の栄えある初陣をゴミ掃除とする、少々過激な形で富野氏イズムが表現されていると言える。

また、ここではビームサーベルが使われているのがポイントだ。船の針路を確保するなら、無闇に砲で吹っ飛ばすより、モビルスーツの手足を使ったほうが効率はいいわけで、本来人型でなくていい兵器が人型であることに理由を付け続けてきたガンダムシリーズらしい活躍ともいえる。前述した「ガンダム Gのレコンギスタ」のデブリ掃除シーンに通じるものがあって面白い。

そしてマークたちは、シンシアの故郷である「ガイア」に逃げ込む(実はシンシアは「ガイア」代表の娘。有力者の娘が仲間というあたりも富野氏作品っぽい)。ガーノー総督は、シンシアが持つ生体発光技術を手に入れ、食糧供給の面から地球圏を支配するべく、「ガイア」に侵攻をかける。ガンダムシリーズにはさまざまな敵役が出てくるが、その中でもかなりわかりやすい理由であり、シリーズを知らない視聴者に対しての説得力も抜群だ。

戦いを避けていたマークも、「ガイア」を守る決意をし、新コスチュームを着用するが、その質感は「かわのよろい」っぽく見える。「なんで宇宙で戦う人の服が“かわのよろい”っぽいんだろう?」とも思うのだが、もしかするとこれは「面積が限られた閉鎖空間であるスペースコロニーでは、革製品の価値が地球より高い」という描写ではないだろうか。

そして、ガンダムシリーズには「エースパイロットや重要人物が、目立つ服装や機体塗装で士気を高める」風習がある。マークの服が「かわのよろい」っぽい質感をしているのは、エース中のエースであるシャアが機体を赤や金色に塗るガンダムっぽさを、海外スタッフなりに解釈した結果であるのかも知れない。

■ガンダムシリーズに欠かせない悪女と、実写ならではの説得力

「ガイア」防衛に立ち上がったマークは、Gセイバーを駆って戦場へおもむく。敵として登場するのは、マークが軍を辞める原因ともなった、因縁の元上司。2人の機体はコロニーのミラー上で対峙し、ビームサーベルで激しく戦うのだ。

同じガンダム+実写の「GUNDAM 0079 THE WAR FOR EARTH」にもミラーの上にモビルスーツが乗るというシーンが見られるのが興味深い。Gセイバーは瓦礫に腕を取られて動けなくなり、絶体絶命の危機に陥る。ここで逆転の切り札となったのが、装甲の強制排除。瓦礫に挟まれた腕の装甲を外して自由を確保、中身の機械がむき出しになった腕で逆襲して勝利を得た。見た目に痛々しく、人間でいうなら「腕の皮を引きちぎり、骨だけで無理矢理に剣を振る」ようなもの。

しかし、モビルスーツは機械なので、装甲を外しても機能には問題がなく、普通に戦闘が可能である。主人公機であっても徹底的に機械として扱っているというわけだ。

「機動戦士ガンダム」では、ガンダムが顔を吹き飛ばされた際にも「たかがメインカメラをやられただけだ!」と戦闘を継続させるシーンが語り継がれている。本作の腕装甲排除には、こうしたガンダムっぽさやトミノイズムを演出する意図があるのではないだろうか。

危機を脱したGセイバーは、母艦で地上用に換装。「ガイア」に上陸した敵モビルスーツ・ブグを一掃する。この換装もガンダムっぽい要素だ。地上と宇宙では環境が違っており、モビルスーツの中には換装しなければならない機種もある。モビルスーツを機械として扱う、ガンダム的なリアリティの追求が換装なわけだ。

「機動戦士ガンダム」の後付け設定における「ザクIIF型」→「ザクIIJ型」など、地上用兵装への換装が話題となる機会は多いが、映像として表現されるのは珍しい(『機動戦士ガンダムSEED』や『機動戦士ガンダムAGE』の換装は、あくまで汎用→砲撃用など機能変更の換装で、別物)。母艦に内蔵された自動換装システムが素早く作業する特殊例だが、これまで「地上用に換装」の文字を読んで想像していたプロセスが映像となったわけで、ガンダムファンには嬉しいところだ。

そして、ブグという名前を聞いて、「ブグって、『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』に出てきたザクの前身でしょ? なんで140年も未来の『G-SAVIOUR』にいるの?」と首をひねる人もいるかもしれない。これは2000年の「G-SAVIOUR」でブグが出てきた後に、2015年のアニメ「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」において同名の別機体が出てきたことによる(プロトタイプザクがアニメ版で名称変更されてブグとなった)。

つまり、今のガンダムシリーズには2種類のブグが存在することになる。メタな意味ではどこかで名前被りがOKになったということで、ガンダム史における「G-SAVIOUR」の立ち位置の変化が見て取れなくもない。しかし、サイド名の「ニューマンハッタン」や議会軍の制服とあわせて考え、大規模な復古のムーブメントがあったとするとうまく説明が付くのではないだろうか。過去に宇宙移民が独立戦争のために作った機体の名を、彼らを弾圧する地球至上主義者が用いるという混乱はあるが、そこも含めて混迷の時代であるとする表現かもしれない。

そして、本作で特に印象深いのが、マークの恋人であるミミ。自分がキャリアアップするためにマークの影響力を利用しようとする、計算高い女性だ。

ミミはマークとともに軍から逃げるが、彼がシンシアに惹かれているのを知ってしまう。そしてミミは、自分を裏切ったマークに見切りを付け、ガーノー総督と内通。キーアイテムである生物発光体を渡すことで取り入ろうとする。

しかし、総督が地球圏制覇の野望を持つことを知って翻意し、生物発光体をシンシアたちに返却。自分は総督とともに議会軍に撃墜され、宇宙のチリとなった。女としてのエゴをむき出しにして状況を引っかき回すさまに、群像劇としてのガンダム的雰囲気があり、「機動戦士Vガンダム」のカテジナさんや「機動戦士ガンダム0083」のニナを連想させる。

自分が愚かだったことを受け入れて潔く死ぬあたりは、俳優のカタリーナ・コンティ氏の演技や、実写俳優の情報量と相まって実写映画ならではの説得力がある。ガンダムと実写が融合したひとつの成果と言えるだろう。

宇宙世紀は行き詰まった時代である。それぞれの勢力に正義があり、シャアやアムロなどさまざまな人物が苦悩するも、解決は見えてこない。そうした状況の中、本作では「イルミナーティ」という秘密組織が登場し、マークにGセイバーを与えたり、「ガイア」を守ったりすることで世界秩序を守っている。

こんな組織でもないことには宇宙世紀は救えないという点では、ディープなガンダムファンこそ納得できるのではないだろうか。

単独ゲーム化を除き、オールスター系作品にも出演がほとんどないうえ、近年はガンダム関係資料に名が出ない場合もあり、宇宙世紀の正史としての本作の位置づけが変わってきているとも取れる「G-SAVIOUR」。

ガンダムシリーズの黒歴史とされることも多いが、見直してみるとしっかりとトミノ作品っぽさやガンダムっぽさが漂っているようにも感じられるのだ。

(文/箭本進一)

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