キャラクターからメカニックまで――デザイナー・安田朗のこれまでとこれから【アニメ業界ウォッチング第61回】

富野由悠季監督の最新作『Gのレコンギスタ I』「行け!コア・ファイター」が先月公開され、2020年1月にも追加上映が決まっている。主役ロボットのG-セルフに“瞳”が描かれたことでも反響を呼んだが、そのG-セルフをデザインしたのが安田朗さんだ。
「∀ガンダム」(1999年)のキャラクターデザイナーとしてアニメ業界で初仕事。以降も「コードギアス 反逆のルルーシュ」(2006年)、「モーレツ宇宙海賊」(2012年)などでキャラ、メカ問わずにデザイナーとして活躍している。
しかし、アニメ業界で地歩を固めるまでの道筋は、決して平坦ではなかったようだ。

やる気を出せば何でもできるけど、やる気がなければ何もない


──安田さんといえば、「∀ガンダム」のキャラクターデザインで知られています。1979年放送の「機動戦士ガンダム」はお好きだったのですか?

安田 僕は「ガンダム」ありきの人間だと思っています。「無敵超人ザンボット3」(1977年)はキツかったので途中で辞めてしまったのですが、「無敵鋼人ダイターン3」(1978年)の最終回に感動して、15歳で「ガンダム」を見ました。当時は美術部に所属していて、地元に佐藤紙店という文具屋さんがあって、そこにアムロの格好をした女の人がいたんです。アムロの格好で、普通に横断歩道を歩いていたんです。コスプレなんて文化は知りませんでしたから、「こういう世界があるのか」と衝撃を受けまして、高校の文化祭でみんなに「ガンダム」のコスプレをやってもらいました。できは悪かったのですが、ドムやズゴック、連邦軍の制服などを作りました。
本来なら美術大学などに進むべきだったのかもしれませんが、どうも芸術っぽい絵を描き続ける力が出ませんでした。「キャプテンフューチャー」(1978年)などのアニメ、ロボットなんかのほうが好きだったので、専門学校へ行くことにしました。「東京へ行ったら何とかなるのではないか」と思い、北海道から上京しました。だけど新聞奨学生として専門学校へ通っていたので、忙しくて絵を描く時間がありませんでした。お金もなかったし、おニャン子クラブとか「ねるとん紅鯨団」とか、チャラチャラした文化が憎かったですね(笑)。

──でも、カプコンに入社できたわけですよね?

安田 元カプコンの岡本吉起さんという変わった人に、面白い雰囲気があるせいか、採用してもらえたんです。エキセントリックな上司や個性的なメンバーが多いので、真っ当な常識人は脱落するし、脱落したほうがよい職場でした。公の場所で子どもみたいなイタズラばかりする上司だったので、普通の人はイヤになってすぐ辞めてしまうんです。

──カプコン時代の職種はデザイナーだったのですか?

安田 ドッターという職種でした。ドッターでありながら企画マンにもなりたくて、上司がトイレに入った隙に僕も一緒にトイレに入って、「企画マンになりたい」とお願いしました。それで希望が通ってしまうほど、ゆるい時代だったんです。

──「ストリートファイターII」(1991年)でキャラクターデザインを担当しますよね。そこから「∀ガンダム」まで8年間もあるのですが、どんな経緯があったのでしょう?

安田 21歳でカプコンに入社して、26歳ごろ、同僚と「ストII」をメインで担当しました。「ストII」は自分で始めた企画ですし、評価が高まってしまったので、「ストII」のメンバーをいくつかに分けて「ストII」のようなゲームをつくるから、それぞれのチームの足りないところを補う仕事をしてくれ、と会社から言われました。結果として、自分のチームがなくなってしまったんです。やる気を出せば何でもできるけど、やる気がなければ何もしなくていい立場です。管理職というよりは、主査ですね。みんながレベルアップしたら、自分は必要なくなるわけじゃないですか。もともと絵を描きたくてカプコンに入ったのに、将来的に絵を描かない人生になるのが明白になってしまった。給料はいっぱいもらえるようになったので、面白おかしく暮らせるんだろうけど、まったく面白くない状況になりました。
それで腐っているときに、富野由悠季監督から声をかけてもらえたんです。当時の富野監督は「機動戦士Vガンダム」(1993年)の後、3年ほどアニメの仕事をせずにロックバンドの雑誌に変なコラムを書いていて、ずいぶん病んでいるとは思いました(笑)。

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