「プロメア」「海獣の子供」「きみと、波にのれたら」が示す2019年アニメ映画の現在地【平成後の世界のためのリ・アニメイト第3回】

2016年以降の注目アニメへの時評を通じて、平成最後の風景と併走しようなどと目論んでいた本連載。

その後、非セルルックな表現や声優と役柄の同一性の打破など日本アニメのフォーマット性のちゃぶ台返しを敢行した「ポプテピピック」(2018年)が日本アニメ100年のタイミングを経て出てきた意味などを考えようとしていたあたりで、筆者の身辺に諸々の変化があって丸1年以上も途絶してしまい、気がついたらすっかり平成の世も過ぎ去ってしまった。

ただ、編集者としての筆者は、昨年末からの仕事として、批評家の石岡良治の新著『現代アニメ「超」講義』(PLANETS)の書籍化を担当し、去る6月21日に上梓することができた。

毎クールの放映アニメ作品を半数以上はリアルタイムに視聴し続けている石岡の博覧強記に寄り添うことで、筆者ごときが中途半端に時評するよりも、はるかに高精度に「平成後」のアニメを展望できる本を世に送り出せたと思う。

本書の構成をもうすこし詳しく紹介すると、21世紀の日本アニメの全体的な動向を4つの切り口から分析しているのだが、その大きな軸線のひとつに、ポストジブリの「国民監督」化を期待された「細田守から新海誠へ」の移行という視点がある。

つまり、特段アニメファンでない人々でも観られる一般向けのアニメとして、宮崎駿監督のスタジオジブリ作品が20世紀末から特権的な地位を持っていたせいで、21世紀が明けてからしばらくの間、オリジナルアニメ映画の監督に「ジブリの後継者」的なものが求められる時代が長らく続いていた。

その筆頭が、「時をかける少女」(2006年)で頭角を現した細田守監督で、以降きれいに3年おきに新作が発表されるリズムを保ちつつ、暫定的に細田が(本人がそう意識していたかどうかはともかく、市場や世間の受け止め方として)ファミリーや一般層に向けた「良質なポストジブリ映画」の枠を担ってきた。『現代アニメ「超」講義』の序章「細田守から考える」では、細田がそのような立ち位置になったことの功罪をめぐっての批判的な検討から、今世紀の日本アニメがどのように変化したかの全体像を辿る本書の議論が始められている。

しかし、それが2016年の「君の名は。」の歴史的なヒットを経て、新海誠監督が細田以上に注目を浴び、アニメ映画をめぐる状況が一変してしまったことは誰の目にも明らかだろう。この状況の持つさまざまな意味が、本書の終章「2016年以後の世界──アニメの『神話論理』のために」では、きわめて見通しよく分析されている。

今の日本アニメの全体像に興味のある皆さんには、ぜひ手に取って読んでいただきたい。

さて、あれから3年。まさに細田守のお株を奪うようなタイムスパンでの新海誠の新作「天気の子」の公開を7月19日に控えているのを大本命として、「2016年ショック」を本格的に受け止めた新作映画群が、平成後の最初の夏休みを前に目下競演を繰り広げている。とりわけこの5~6月にかけて公開された「プロメア」「海獣の子供」「きみと、波にのれたら」がそれぞれに高い完成度で話題性を獲得し、すでに上半期の時点で2019年は、2016年に劣らぬアニメ映画の“当たり年”になる可能性を垣間見せていると言ってよいだろう。

この3作はそれぞれ、「君の名は。」の企画立案で成功したTOHO animationが製作に関与し、スタジオジブリ作品において顕著だったようにメインキャストに専門声優ではなく一般俳優を起用するなど、アニメファンでない層への広範な訴求を狙っている。つまり2016年以降、市場の意識が「ポストジブリ」のくびきから解き放たれていることを前提に、それまでにはなかった確信をもって従来のターゲッティングを越える作品作りが、さまざまに試みられている点を共通項としている。

というわけで今回は、石岡の『現代アニメ「超」講義』が提示した「2016年後の世界」のフレームを補助線にしながら、これらの作品を対比的に評してみたい。

※ここより、上映中作品のネタバレ要素を多分に含むテキストが展開しますので、それを踏まえたうえで記事を読んでください(編集部)。

20世紀型オタク・フェティッシュの更新を目指す「プロメア」


公開順に、まずは5月24日公開の「プロメア」から見ていこう。

『現代アニメ「超」講義』の第1章「2010年代 深夜アニメ表現の広がり」では、かつてのOVAの延長線上に、コアなアニメファン向けにニッチ化した生態系として21世紀以降は深夜アニメが全域化していった様相が語られているが、本作は3作のうち最も深夜アニメ環境で培われてきたコアな部分に近いところから生まれていると言える。

というのは、本作の制作スタジオ「TRIGGER」は、オタクがオタクのために作ったアニメスタジオの元祖である「GAINAX」の流れを汲み、看板監督・今石洋之と脚本・中島かずきのコンビで「天元突破グレンラガン」(2007年)、「キルラキル」(2013年)を送り出してきた脈絡の集大成という性格が、「プロメア」にはあるからだ。

「グレンラガン」は、20世紀の日本アニメのかつての王道だったロボットアニメが、特に「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年)以降はイノベーショナルな勢いを失い、それ以前から続く「ガンダム」「マクロス」の2大シリーズを除いてジャンルとしては凋落していく中、主に1970年代のスーパーロボット系の(「萌え」ならぬ)「燃え」のフェティッシュを復権させることでルネサンスを試みた作品だった。ただ、『現代アニメ「超」講義』の第3章「今世紀のロボットアニメ」でも「『とりあえず熱くバカをやればいい』という落としどころになってしまっていたため、『原点回帰による更新』よりは『伝統の再確認』が勝っていた」(p.172)と評されているように、総じてプロパーなアニオタ以上に支持が広がる作品にはなりえなかったきらいが強い。

今石&中島コンビの次作「キルラキル」も同様に、1970年代以前的な学園番長もの漫画のテイストを現代的なSF異能バトルのギミックやアメコミ的なスタイリッシュに接続しながら、「熱さ」のフェティッシュの様式美を追求する方向で、TRIGGERのブランド性を確立していった作品である。

「グレンラガン」のカミナを踏襲した主人公ガロ・ティモスのキャラクターデザインや、「キルラキル」を踏襲した寓意性の強い異星生命体といった世界観や脇役声優陣のスターシステム的な起用など、一見して過去作のセルフオマージュ的な要素が目立つあたり、「プロメア」は基本的には深夜アニメの生態系の中でクラスタリングされてきた従来のTRIGGERファンへの訴求をベースにした作品だと言える。

したがって、「一般映画」としてのより広範な層への訴求を目指すにあたり、本作に問われるのは、どのように「従来のTRIGGER的なるもの」を更新したのか、だ。

そんな課題への作品的な回答として本作が挑んだのは、副主人公のリオ・フォーティア率いる異能力者たち、バーニッシュが操る「炎」のモチーフのグラフィカルな表現と、それに対抗するガロたち高機動救命消防隊、バーニングレスキューが行う「消火」のアクションのダイナミズムによる、自分たちが描き続けてきたモチーフへの自己点検および昇華の試みである。

本作のキャラクターデザインを務めるコヤマシゲトがディズニー作のCGアニメ「ベイマックス」(2014)のコンセプトデザインを担当していることからもうかがえるように、本作のルックやジャンル的な骨格は、明らかに世界標準のアクション・エンターテインメントとなったアメコミヒーロー映画の枠組みの換骨奪胎を志向している。

つまり、かつて日本アニメが得意としていた金田伊功や板野一郎の系譜に連なるケレン味あふれるアクション表現や画面レイアウト、編集リズム、さらには複雑で高度な文芸性をもった題材・シナリオといった独自性が、ディズニーやマーベルを筆頭とするハリウッド映画にすっかり吸収され、もはや質・量ともに日本製コンテンツをはるかに凌駕するオープンエンターテインメントとして量産されるようになった今世紀の状況を、本作は深く受け止めている。そしてTRIGGERブランドが積み重ねてきた趣味性を武器として生かしつつ、近年のディズニー的な普遍性の採り入れと打ち返しに真正面から挑んだ最初のまともな日本アニメ映画として、本作の立ち位置は意識されるべきだろう。

この観点からすると、いかにもTRIGGER的な「燃え」を体現するアナクロな熱血バカとして造形されているガロたちの生業が「火消し」であることは示唆的だ。劇中物語の30年ほど前に人類の突然変異体として発生したという設定のバーニッシュには、ローポリゴン風のデジタルなテクスチャで描かれたクールな色調の炎の表現も含め、SNSでの「炎上」の寓意も込められている。言うなれば現代的なネットコミュニケーションの遍在化が必然的にはらむようになった集合的な熱狂の暴走を、いかに反省的な“正しい熱さ”、ひいてはプロフェッショナルなアニメイトの快楽によって凌駕するかというメタレベルの課題が、「プロメア」の作品構造には埋め込まれているわけだ。

その試みは、ビジュアル表現の面では3月に日本公開されたマーベルのCGアニメ映画「スパイダーマン:スパイダーバース」に比肩するとの評価も散見されたように、かなりの程度成功していたと思う。松山ケンイチ演ずるガロと早乙女太一演ずるリオを冒頭アクションでの敵対関係からBL的なバディ関係に導いたり(これは「キルラキル」における主人公・纏流子とライバルの鬼龍院皐月の関係の反復でもある)、堺雅人演ずる執政官クレイ・フォーサイトを、ガロの精神的な父からヴィランとして立てていったりと、ドラマの対立構造をテンポよく覆していくことでエンターテインメント性とテーマや世界観の複雑性を両立させていく今時のアメコミ映画に近い作劇リズムが弛緩なく貫徹されていたことは、間違いなく本作が達成した美点であろう。

「擬似ポリコレ」としてのソフトBL作劇

加えて、「ベイマックス」や「ズートピア」(2016年)、あるいはフェイズ3以降の「MCU」(マーベル・シネマティック・ユニバース)といった現代ディズニー作品では、キャラクター造形や作劇テーマの面において、ポリティカル・コレクトネスへの配慮を徹底することで多様な作品性の進化が追求されてきたわけだが、近年の日本アニメにおけるその対応物として「プロメア」がサルベージしてきたのが、ガロとリオのソフトBL的な関係性に基づく巨大ロボット描写だろう。

すでに述べたように、21世紀になってロボットアニメは凋落したが、その背景には少年の成長願望を体現するマチズモ的な道具立てとしての巨大ロボットをめぐる暗喩が、時代の変化によって大きく説得力を失ってしまったことがある。そのプロセスを、順を追って辿り直す中で復権の芽を探ろうとして失敗したのが「グレンラガン」だったこともまた、先述した通りだ。

対して、「プロメア」では物語終盤、バーニッシュの発生原因が、並行宇宙に棲息する炎型生命体・プロメアが、宇宙的な次元接続現象によって30年前に地球の核と融合したことだと判明。ガロとリオはそれぞれの「消火」と「炎上」に対する行動原理のエスカレーションを具現化する視覚ギミックとして用意された巨大ロボットに搭乗し、大多数の地球人を見殺しにして選民たちによる異星への脱出をはかるクレイの計画を阻止するという筋立てになっている。

ここで、巨大ロボットの素体の名称が文字通り「デウス・X・マキナ」と、あくまでも作劇のための便法に過ぎないことが明示され、それがガロとリオの欲動の水平的な結合によって「リオデガロン」にも「ガロデリオン」にもなるという展開が交互に描かれていた点は重要だ。つまり、失効した20世紀的なロボットアニメの命題に必要以上に引きずられることは作劇的な限定で回避しつつ、BL的な「攻め」「受け」構造がはらむ権力性を双方向化したキャラクター表現によって、クレイが簒奪した旧時代的な父権を調伏するという図式で、TRIGGER的なロボットアクションのスペクタクルが手堅く現代化されているからである。

もっとも、こうしたホモセクシュアルな絆の活用自体は、「魔法少女まどか☆マギカ」(2011年)や「キルラキル」をはじめ、戦闘少女同士のソフト百合的なバディ関係が世界の危機を救う作劇パターンとして2010年代の日本アニメの文脈に定着していたものでもあるので、取り立てて斬新なわけではない。

ただ、主にヘテロセクシュアルな男性視聴者にとってのノイズを排除する要請から美少女アニメにおいて先行していたそれが、より広範な客層を見込んだ作品では男性主人公にも援用されるようになり、結果的にポリコレ的なバランス意識として作用している点は、2019年ならではのモードとして指摘することができるだろう(同時期の深夜アニメでは、ノイタミナ枠で放映された幾原邦彦監督の「さらざんまい」が「少女革命ウテナ」(1997年)の男女反転的なフォーマット性で作られていたことも同様である)。

石岡の本でも指摘されているように、日本の深夜アニメ環境では、男女視聴者それぞれの性的な嗜好への最適化が過剰に進行した結果、少年マンガや少女マンガの伝統的傾向とは逆に、男性向けアニメは女性キャラばかりに、女性向けアニメは男性キャラばかりになってそれぞれのホモソーシャルな閉鎖性が百合やBLのホモセクシュアル表現に転化されるという、いわゆるポリコレとは真逆の意識による棲み分けが進行していった経緯がある。

その後ろ向きの男女棲み分け環境が育んだ表現を組み替えることで、むしろ一般向けコンテンツとしては軽度のBL表現がポリコレ的対応として“無難”な選択肢になりうるというねじれた状況もまた、「プロメア」はすくい上げているように思う。

 

「人智を超えたもの」との対峙を「夏休み映画」化した「海獣の子供」

以上、主にディズニーヒーロー映画への表現論的なキャッチアップという観点から「プロメア」の立ち位置を検討した。

いっぽうで、本作が逆に日本的な価値観を海外向けにプレゼンテートしている点としては、プロメアによる地球の危機の本質が、「キルラキル」の生命繊維や「アベンジャーズ」シリーズのような異星からの侵略ではなく、あくまで宇宙レベルの「自然現象」として描かれていることがあげられる。

ゆえに、クレイ打倒後のガロたちの最終的な行動原理になるのは、“プロメアを撃退するのではなく完全燃焼させる”という選択であり、ここでガロのキャラクターモチーフを江戸の町火消(まちびけし)になぞらえ、やたらと歌舞伎チックなジャポニズムを強調してきたことの意味が生きてくる。つまり、近代的な冷却消火の技術が限定的だった江戸火消の主要な防災手段は、飛び火先の打ち壊しによって延焼を防ぎながら、やがて完全燃焼して自然鎮火するのを待つことでしかなかった。そうした人智を超えた災害への適応策を「火事と喧嘩は江戸の華」とばかりに祝祭的に遂行する心性のもと、一貫した脚本と演出によってアニメイトした点こそが本作の白眉と言えるだろう。

ここでは、2016年の「シン・ゴジラ」や「君の名は。」が東日本大震災の記憶にもとづく「災後」映画であった脈絡を踏まえつつ、「風の谷のナウシカ」(1984年)や「もののけ姫」(1997年)といった宮崎駿作品などで繰り返し描かれてきた人智を超えた自然の猛威の調停という、より古層にある日本アニメ的プロットに沿っての上書きがなされている。

もちろん、このあたりの災害観・自然観もまた、同時期に公開されているレジェンダリー・ピクチャーズ版「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」などハリウッド的な受容が見られ、日本コンテンツならではの独自性とは言い切れない相互浸透も進行中だ。

したがって今後の日本製コンテンツのスペクタクル表現には、ドメスティックな震戦災の体験をはじめとする列島の風土に根ざした「人智を超えたもの」についての想像力を、20世紀的な戦後トラウマとしてでなく、いかにグローバル・エンターテインメントの流儀に即したかたちで普遍化していくかが、ますます問われていくことになるだろう。「プロメア」が垣間見せたのは、そのような問題設定の前面化に他ならない。

他方、6月7日公開の「海獣の子供」もまた、そうした「人智を超えたもの」をめぐるモチーフに対して、異なる脈絡からのアプローチを採った作品だ。

五十嵐太郎の同名漫画を原作に、「マインド・ゲーム」(2004年)や「鉄コン筋クリート」(2006年)など、海外受けするアーティスティックな作風でブランド価値を築いてきたSTUDIO 4℃がアニメ制作を手がけた本作は、芦田愛菜の主演や久石譲の音楽、それに米津玄師の主題歌と、同スタジオの作品史の中ではひときわメジャー指向のプロモーションが際立つ映画になっている。

そして監督の渡辺歩は、2011年にフリーとして独立するまでシンエイ動画で「ドラえもん」シリーズの演出を長らく手がけ、とりわけ初の長編監督作「のび太の恐竜2006」(2006年)以降、第2期になってからの「ドラえもん」映画のリブートで注目されてきた作り手である。

つまり、石岡の『現代アニメ「超」講義』での枠組みに照らせば、第4章「キッズアニメ──『意味を試す』」で論じられたようなキッズ(児童向け)アニメの文化の中でキャリアを重ねた監督と、まったく異なるアニメカルチャーを背負ったSTUDIO 4℃との異色のコラボによって「一般映画」としての成功を目指すという、きわめて実験的な座組みによって本作の企画性が成立していることがわかる。

ゆえに本作に問われるのは、かなりの異文化接触であっただろう原作・監督・スタジオの化学反応が、どこまで奏功したのか、だ。

まず、「海獣の子供」の原作のあらましをごくごく端的に述べるなら、本作は世界の諸民族の創造神話や自然に対する信仰習俗への民俗学的・文化人類学的な省察、あるいは現代における世界の成り立ちの説明原理としての生命科学や宇宙物理学といった現代科学の知見を出発点に、ミクロの領域からマクロな宇宙論的なレベルまでを通底する巨大な生命的システムの媒介として「海」をとらえ直し、どうにか人間が認識可能な図像と言語の複合メディアである漫画のドラマツルギーに落とし込んで宇宙の再創造を物語ろうとした、寓意的な自然哲学の試みである。主人公の中学生である琉花、および彼女が出会うジュゴンに育てられた2人の“海獣の子供”である海と空が、隕石の落下を機に誘われていく冒険は、あくまでも人間の理解からは隔絶した惑星規模の事象への立ち会いに過ぎない。

つまり、琉花たちの人間の世界のドラマと、緻密ながらも荒々しい過剰さを秘めた絵柄で活写される人外の世界の非言語的な出来事とでは、明らかに力点があるのは後者のほうなのである。

こうした厄介な性格をもった原作を111分の劇映画にするにあたって、渡辺監督とSTUDIO 4℃の制作陣が採ったのは、あくまで琉花の主観にカメラを置けばひと夏の非日常体験であるという構造に焦点を絞り、「となりのトトロ」(1988年)などにも通ずる日本の長編アニメ映画のクラシックな型である「夏休み映画」のジュヴナイル・ファンタジーに落とし込むという方法論であった。

そのこと自体は、原作の骨格を鑑みてもほかに手立てはないだろう妥当な圧縮法であり、世界観をめぐるミステリーの探求役である海洋学者のジムやアングラードの掘り下げをある程度断念する選択になったのは致し方のないところだ。

そうした分析的な理解をうながす狂言回したちのプロットを間引くいっぽうで、本作は映像メディアだからこそできる海に息づく生命たちのアニメイトの豊穣化や圧倒的なエフェクト処理によって原作の非言語的なイメージを動的に翻じていくことにリソースを集中。とりわけ「海」と「宇宙」が交接する「誕生祭」の人智を超越した崇高さを、「ファンタジア」(1940年)や「2001年宇宙の旅」(1968年)にも連なるサイケデリックな映像詩として描ききってみせたあたりは、間違いなく映画としての本作の価値の中核になっていると言えるだろう。

「ジュヴナイル・ファンタジーの呪縛」からの脱却の“波”に乗った「きみ波」

だが、映像化に際してアニメ「海獣の子供」は、「夏休み映画」というかりそめの枠組みに必要以上に順応しすぎてしまったことで、原作の主眼であった「人智を超えたもの」への洞察が決定的に損なわれてしまったように思う。確かに本作は琉花の視点からすれば、彼岸での体験を経て生還する通過儀礼に似た「行きて帰りし物語」の構造を持ってはいるものの、それは人間的な価値基準における“成長”や社会への包摂をゴールとするようなものでは断じてなかったからだ。

原作で描かれていた琉花の変化は、アニメのラストで示唆されていたような、円滑なコミュニケーションが苦手な少女が夏休みの冒険を経て友達や母親との関係を見直せるようになるといったヒューマニスティックな“成長”などではない。むしろ人外の理の媒介者となることで、人間社会そのものの矮小なありようにとらわれない視座を獲得することであったはずだ。そのあたりの落としどころが、台詞やシーンの取捨選択の結果、原作と映画とでは、ほとんど正反対になってしまったのである。ビジュアル面では極限まで原作をリスペクトした映像を達成していただけに、シナリオ面でのこの選択が既知の「夏休み映画」イデオロギーの内破や更新を起こす化学反応としては機能せず、本作を表現する器としての限界の露呈にのみ終始してしまったことは、たいへん残念に思う。

このあたり、原恵一監督の「河童のクゥと夏休み」(2007年)にせよ、細田守監督の「サマーウォーズ」(2009年)にせよ、国民的キッズアニメシリーズの劇場版で高い評価を得た監督が独自題材でジュヴナイル・ファンタジーとしての「夏休み映画」を作る際、出世作のインパクトに比して精彩を欠いたものになりやすいという2016年以前のジンクスが、またもや反復されてしまったかという印象だ。

それでは、同じく「海」を題材としたライトファンタジーとして対照的に取り沙汰されることの多い、6月21日公開の「きみと、波にのれたら」はどうか。

「夜明け告げるルーのうた」(2017年)に続く、湯浅政明監督にとって2作目のオリジナル長編にあたる本作については、筆者は別記事にて監督インタビューを担当しているので、あらましはそちらでご確認いただきたい。
「アニメであるからにはこうあらねば」という固定観念から解放されたのでは――鬼才・湯浅政明監最新作「きみと、波にのれたら」公開記念インタビュー!

上記インタビューでも話題にしているように、「きみ波」はアニメーション表現のレベルでは、前作「ルー」から「水(海)」「火」「歌」という3つのキーモチーフを継承しているが、その作品性はがらりと様変わりしている。その結果、おそらく今回取り上げた3作の中で、本作は最もわかりやすく「2016年以後の世界」の空気感をまとった作品だと思う。

どういうことか。「君の名は。」以前の「国民的アニメ映画」といえば、東映漫画映画の流れを汲む宮崎駿/スタジオジブリ作品に典型的な、どこか古きよき児童文学のイノセントを残したジュヴナイル・ファンタジーでなければならないという教条に、作り手も市場もとらわれがちなきらいがあった。ゆえにこそ、その典型的なフォーマットである「夏休み映画」の磁力に絡め取られ、監督本来の持ち味や原作素材のポテンシャルを失してしまう「海獣の子供」のようなケースが後を絶たなかったのだと言える。

その意味では、湯浅監督の「ルー」もまた、あたかも国民作家化を目指すポジションに足をかけたアニメ監督の通過儀礼であるかのように、2016年以前的な「夏休み映画」の類型を踏襲した一作であった。

しかし、大林宣彦の青春映画を参照源とする細田守版「時かけ」に近い題材傾向を持つ「君の名は。」が大成功したことで、この状況は一変する。『現代アニメ「超」講義』に出てくる石岡流の表現を使うなら、さしずめ「ジェネリック新海誠」とでも言うべき、思春期のナイーブな性愛衝動を美麗な風景描画や光のフェティッシュに注力した撮影処理、トリッキーな作劇ギミック、および叙情的な挿入歌のPV的演出で彩るタイプの作品類型が、ジュヴナイル・ファンタジーに代わる新たな王道への昇格を果たしたのである。

その意味では、フジテレビが製作委員会を主導し、リア充感あふれる若者向けラブストーリーに振り切った「きみ波」は、明らかに「君の名は。」以降の市場動向への適応を狙いにした企画だと言える。

言うなれば「ルー」から「きみ波」への流れは、「ジブリ・エピゴーネンからジェネリック新海誠へ」という一般向けアニメ映画企画の潮目の変化が、いち監督の作品史として最もビビッドに見て取れるケースになっている。

湯浅監督といえば、長編映画デビュー作「マインド・ゲーム」や森見登美彦原作作品などの印象から、どちらかと言うと日本アニメの多数派的動向には背を向けて、スノッブな題材で独特の映像表現やアニメイト手法を追求し、大衆やアニメファンよりは国内外の映画賞で評価される、いわゆる「アート・アニメ」の旗手というのが従来のイメージだった。

しかしながら、とりわけ2013年の自身のスタジオであるサイエンスSARUの設立以降は、テレビシリーズや映画、あるいはネット配信などメディア環境を問わず、さまざまな商業的要請に応じて、来た球を打ち返す、著名監督の中でも特に多作なアニメ作家という実態が、気がついたら積み重ねられているように思う。

こうした多産監督としての湯浅の性格が時代の指標性を帯びることになり、文字通り「2016年以後の世界」の“波”に乗ることになったのが、「きみ波」という作品の立ち位置だと言えるだろう。

「卑俗なもの」のアニメイトによる恋愛の日常性の異化

では、かなり自覚的に実写サーフィン映画の系譜への応答を試みた作品でもある本作は、どこまですぐれたサーファーとして時代の波に呑まれずに屹立し、独自のパフォーマンスを発揮することができたのか? 言い換えれば、いわゆる「ジェネリック新海誠」な作品とは、何がどう違うのか?

一見して明らかなのは、それらの作品群が共有している、かつての「萌え絵」ベースの絵柄を生々しい実写的芝居に耐えうる方向で陰影表現などを繊細化した(典型的には貞本義行から田中将賀に至るタイプの)キャラクターデザイン+写真トレース型のリアリスティックな背景美術+偏執的な撮影エフェクトへのこだわりといったビジュアル・コードから、湯浅作品が大きく逸脱していることである。

この前者の傾向は、大きく見れば新海誠作品だけに留まらず、「あの花の名前を僕達はまだ知らない。」(2011年)や「心が叫びたがってるんだ。」(2015年)をスマッシュヒットさせた超平和バスターズ周辺の諸作、ないし京都アニメーションおよびP.A.WORKSといったスタジオが得意とする「聖地巡礼」喚起型の現代劇など、要は2000年代後半から2010年代にかけて「日常系」のブームを経て成熟した、フォトリアル志向のメジャー深夜アニメに通ずる潮流としてくくることができるだろう。

対して湯浅の場合、フォトリアルな陰影感や質感の再現よりも、グラフィカルにデフォルメされた絵柄による形態表現やレイアウト、カメラワーク等による異化効果に重きを置き、あくまでもイマジナリーな動きの独創によって実写にはできない画面づくりを追求することを作家性の根幹としている(なお、こうした現代日本アニメにおけるフォトリアル/グラフィカルという対立軸については『現代アニメ「超」講義』の第2章「シャフト・京アニの時代」でも詳しく論じられているので、ぜひ参照してみてほしい)。

そうした表現上のアイデンティティを、「DEVILMAN crybaby」(2018年)などのように、比較的ポピュラリティの高い題材や物語に適用することで、素材が内包していたポテンシャルの再発見に結びつけるのが近年の湯浅作品の特徴だが、「きみ波」も同様の姿勢で取り組まれている。

つまり、川栄李奈演ずる主人公の大学生・向水(むかいみず)ひな子と片寄涼太演ずる雛罌粟(ひなげし)港ら、4人のメインキャラに人気の若手アイドル俳優を起用し、現在の邦画界で一定の存在感を占める、ケータイ小説や少女漫画原作のティーンズ向け量産ラブストーリー映画に近い、従来の湯浅作品からすれば相当に通俗に振り切った企画性が、本作の何よりの特徴となっている。

このあたりは、同じ一般層向けの青春ラブストーリーというくくりでも、やはり美少女ゲームのムービー制作にルーツをもつ、文化系寄りの自意識過剰な新海作品のナイーブさとは、「リア充」度の空気感がまるで違う。あるいは日本映画の脈絡でのインスパイア源に遡れば、1980年代の大林宣彦の尾道三部作に対するホイチョイ・ムービーのそれにも通ずるマイルドヤンキー感の差が、「君の名は。」と「きみ波」のテイストを隔てている。

前節のインタビュー内でも触れたように、EXILE TRIBEのGENERATIONSが担当した主題歌/劇中歌「Brand New Story」を主人公カップルが戯れながら口ずさむのに乗せて、2人が恋愛関係を深めていく幸福な日々の(ナチュラルにセックスも含んだ)情景描写は、本作の個性が最も際立っていたシーンにちがいない。

したがって、かつて湯浅監督と「マインド・ゲーム」で組んだSTUDIO 4℃の「海獣の子供」が主に3DCGエフェクトに依拠して「人智を超えたもの」の超越性を追求したのとは対照的に、「きみ波」では徹底して「卑俗なもの」に内在するディテールの豊かさを再発見することに、手描き主導のアニメイトの力が注がれている。たとえば、手作りのオムライスやドリップ時のコーヒーの泡立ち、ドラマの伏線にもなるスマートフォンアプリを介したカップルの何気ないやりとり、そして港の死と再生の場となる海や水の形状が、ひな子の生活場面や感情の機微に密着して細やかに変容する流体表現の多彩さ。

要するに、題材やストーリーテリングの主導権を脚本の吉田玲子ら女性の中核スタッフにゆだねつつ、監督本来のアニメイトの過剰さ・奔放さの発露を(クライマックスまでは)細部のシーン演出や心象の可視化にのみ抑制している点が、湯浅作品としての本作の演出的特徴になっている。これにより、およそ従来のアニメ映画企画が踏み込もうとしなかった実写映画のジャンル類型の空気感を採り込みながらも、そのどちらの脈絡にもない映像表現の化学反応を生み出すことが企図されているわけである。

「プロメア」「きみ波」での「消火」スペクタクルの相同と相違

そうした禁欲的な演出コントロールのもとに「きみ波」で描かれるのは、海が時折見せる人智を超えた猛威によって港を失ったひな子が、水の中に現れる彼の幽霊とのファンタジックな移行期間(モラトリアム)を過ごす中で恋人の死と向き合い、やがては受け入れ克服して自らの生きる道を見出していくという、きわめて規範的かつシンプルな成長物語だ。

そのことは、「災後映画」としての「君の名は。」の想像力が、被災による喪失を「なかったことにしたい」という気分に基づいてトリッキーな作劇で感動ポルノ化する、ヘテロ男子目線の願望充足型の性表現とも結びついた無自覚のインモラルによって成立していたことを鑑みると、「2016年以後の世界」における、ある種のコレクトネス志向に基づく反省的応答として受け止めることも可能だろう。

この観点からすると、ひな子にとって港との決別と自立を決断するイベントである巨大クリスマスツリーの火災に立ち向かうクライマックスのスペクタクルが、奇しくも「消火」というモチーフによって「プロメア」とゆるく通底している点は興味深い。

改めて対比し直してみれば、「プロメア」と「きみ波」の主要登場人物は、いずれも消防・レスキューの職にあるか、それを目指す者たちばかりである。すなわち、不可避的に発生する人災や天災に立ち向かう役割を物語的に与えられ、「火」や「水」によって表象されるさまざまな度合いの「人智を超えたもの」の猛威から、みずからの人為によって少しでも不幸を減らせるように成長することで、すべからく自己実現を果たすべき存在として設定された主体にほかならない。

そして両作における火災の表象が、いずれも現代のネット社会における炎上という、カジュアルな悪意の暴走と紐付けられている点は重要だ。2016年の「シン・ゴジラ」「君の名は。」ほど直接的に大きな日本社会の問題とつながっているようには見えづらいが、多くの人々が実感しているSNSでのフェイクニュースの蔓延や言論・コミュニケーションの殺伐化など、震災直後よりも顕著に劣化と幻滅のモードが漂っている状況の推移が、ここからは読み取ることができる。

ただ、「プロメア」の場合は炎の隠喩に人為のみならずもっと多義的なモチーフが託されていたため、先に論じたようにその本質に「人智を超えたもの」の生命性を見出していく一元論的な物語展開がなされていったが、「きみ波」の二元論的な世界観にあっては、「人智を超えたもの」はあくまでも海と水の側に託されており、火の災いは人の行いによるものなので、人為によるドラマツルギーで克服可能な対象と見なされている。

ゆえに、彼岸と此岸のモラトリアムにいた港は、ひな子に捧げる最後の奇蹟として、大炎上する巨大ツリーの周囲に大量の水を重力に抗してせり上がらせ、生前の消防士としての職能を全うするかのように、大火を強引に消火。そして、天空までせり上がった水塊が一気に解放されて流れ落ちる中、ひな子はその大波を再び自前のサーフボードで乗りこなしながら港との別離を受け入れ、前を向いてライフセーバーとしての自立の道を歩んでゆくことを決意する。

というように、「きみ波」のラストでは外的事件の解決と主人公の成長が一致する荒唐無稽な火と水の相克シーンにおいて、満を持して湯浅監督のアニメイト表現のリミッターが解除されるわけだが、「プロメア」における最終的な消火の大団円が「くすぶっていた炎を完全燃焼させる」ものだったのとは、きわめて対照的だ。

以上、「2016年以後の世界」の前提から出発して作られた3本のアニメ映画からは、それぞれが抱える作品史的・制作環境的な脈絡や市場の要請との対峙から、それぞれのかたちで「人智を超えたもの」と「人の責任でなしうること」の関係のとらえ直しをアニメイトしようと試みる、新たな状況の推移を垣間見ることができるように思う。

それは東日本大震災後のほんの束の間の“絆”ムードが過ぎたのち、つるべ落としのように日本の衰退と分断が顕在化し、なぜか大きな自然災害も常態化するようになる中で、手持ちの資産の何が使えて何が使えないのかを改めて海外に学びながら棚卸しし、各自が自前で希望の再構築の方途を探る以外にない、模索途上の想像力の諸相だ。

令和と名付けられた、まだ首の据わらない時代は、そのような風景として幕を開けた。

いよいよ公開の「天気の子」が、ここにどのような打ち返しを行うのか、固唾を呑んで見守ることにしたい。

【7/18 17:00追記】

本記事の公開準備中、京都アニメーション第一スタジオへの放火事件の報に接しました。

被害の全容や犯行の背景などはまだ解明の途上ですが、現時点でも多数の死傷者の発生が報じられており、悲痛の念に堪えません。被害に遭われた方々に、まずは心からのお見舞いと支援の気持ちを申し上げます。また、これ以上の被害の拡大の防止と、関係する方々の平穏な生活が取り戻される日が少しでも早く訪れることを、切に祈念いたします。



(文/中川大地)

<中川大地プロフィール>

評論家/編集者。批評誌「PLANETS」副編集長。明治大学野生の科学研究所研究員。文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門審査委員(第21・22 回)。ゲーム、アニメ、ドラマ等のカルチャーを中心に、現代思想や都市論、人類学、生命科学、情報技術等を渉猟して現実と虚構を架橋する各種評論等を執筆。著書に『東京スカイツリー論』『現代ゲーム全史』、共編著に『あまちゃんメモリーズ』『ゲームする人類』『ゲーム学の新時代』など。

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