総括・『天気の子』──東京論/気象ファンタジー/災後映画の視点から【平成後の世界のためのリ・アニメイト第4回】

平成から令和へと時代が移り変わる中で、注目アニメへの時評を通じて現代の風景を切り取ろうという連載シリーズ「平成後の世界のためのリ・アニメイト」第4回は、この夏最大のヒット映画となった「天気の子」に注目!
(ネタバレも多いので、あらかじめ了承の上で読み進めていただきたい。)

京アニ放火事件と『天気の子』公開初日の衝撃を振り返る

「こんなはずじゃなかった」。

「天気の子」が封切りされた2019年7月19日のことを思い返すとき、日本アニメに心を寄せる者であれば、誰もがそのような気持ちにとらわれざるをえないことだろう。
その前日18日に起きた京都アニメーション第一スタジオへの凄惨な放火事件の報は、新たな「国民的アニメ映画」の登場を待ちわびていた人々の心に衝撃を与え、作品を迎えるムードに大きな影を落とすことになった。

筆者個人にとっては、連載前回の末尾にも付記したように、「プロメア」「海獣の子供」「きみと、波にのれたら」の3作を対比しながら「天気の子」を展望した記事が公開された矢先のタイミングだった。まさに本論で「プロメア」「きみ波」について読み解いた人為的な悪意の表象としての「放火」「炎上」のモチーフが、最悪のかたちで具現化してしまったかのような顛末だった。

2011年の震災後の日本アニメの表現が、現代の情報環境下でエコーチャンバー式に増幅された悪意の主題との対峙に踏み込み始めていた中で、その創意そのものが35名もの担い手の生命ごと直接の暴力によって破壊されるという現実の劣化ぶりが、とにかく憤らしくてならない。

衝撃冷めやらぬ中で、東京・池袋にオープンしたばかりのグランドシネマサンシャインで「天気の子」の初回上映を観るはずだった予定は崩れ、民放キー局の朝のワイドショーでのコメンテーター役として、筆者も駆り出されることになる。おそらくは、よりアニメ業界の当事者に近い専門性の高い識者ほどショックが大きく、マスコミ発言どころの心境ではなかったためだろう。

だから当時の筆者としては、とにかく犯行者の人物像や動機を過剰に物語化してテロル効果の助長につながるような情報発信を抑止し、あくまでも京アニというスタジオの業績や作品史の伝道によって、すこしでも被害者救済とアニメ文化支援の方向に関心が向かうよう、微力を尽くすことにした。

慣れないテレビ出演で、筆者自身が果たせた役割はとても限られていたが、番組で印象的だったのは、脳神経科学を専門とする女性コメンテーターが犯人の動機分析を求められながら、「創るということそのものを否定されたみたいで……」と言葉を詰まらせて涙を流し、束の間、その場がワイドショーの定型を逸脱する沈黙に包まれたことだ。

それはこの事件が奪ったものが、被害者に直接の縁のない者にとってはどこまでも「他人事」でしかない一般的な通り魔事件や無差別テロとは異なり、作品を受け止めた1人ひとりの「自分事」として突き刺さった深い情動の記憶の源であり、そして未来の体験可能性だったということを、きわめて赤裸々に痛感させる出来事だったと言える。

そうした事情もあって、事件からまる2か月以上が経った現時点から振り返ってみれば、当局側の情報コントロールや心を痛めた有識者やファンたちの適切な呼びかけもあって、当初危惧されたような犯人側のナラティブを利するような報道は、さほどにはエスカレートしなかったように思う。ただし、その後のあいちトリエンナーレ騒動での脅迫者への触発をはじめ、意に沿わない表現を暴力をともなう示威によって萎縮させようとする悪意の連鎖は、確実にこの社会をむしばんでしまっている。

ひとつひとつは取るに足らない悪意の集合から、取り返しのつかない暴発が特定の表現活動に対して起こりうるというリアリティが文化空間を覆っていく時代への分水嶺として、このままでは2019年の意味が刻印されかねない。しかも2015年にフランスで起きた「シャルリー・エブド襲撃事件」のようなケースと異なり、政治的・宗教的な主張による予期が成立しない、犯行者の個別性に依拠した純粋な確率的事象であったことが、世界的にも特異な文化テロとなったこの事件の厄介さだ。

それを避けるために必要なのが、まずは実際的なレベルでの防犯対策や被害者支援の充実なのは間違いない。他方で、標的にされたアニメの側にできることとして、こうした悪意の本質をとらえ直し、表現のレベルであらがっていくという模索もまた、そろそろ本格的に立ち上げられていくべきだろう。創るということそのものへの悪意に抗することができるのは、創ることそのものでしかないのだから。

だから、2019年を「こんなはずじゃなかった」ものにしないため、改めて仕切り直していくことにしたい。またひとつタガの外れた現実を、それでもアニメが描いた虚構の側から上書きしていくための読み解きを。

震災から異常気象へ

痛ましい事件の発生にもかかわらず、今夏上映のアニメ映画の「大本命」として満を持して登場した「天気の子」は、公開後1か月半の時点で120億円超もの興行成績を順調に伸ばしている。2作連続の100億超えは、「もののけ姫」以降の宮崎駿監督に続いて史上2人目の快挙であり、これによって新海誠監督は名実ともに、ポストジブリの「国民的アニメ映画監督」としての地位を確固たるものにしたと言えるだろう。

すでに膨大な数の評が寄せられているように、徹底した感情線のコントロールでオープンエンターテインメントを目指した前作「君の名は。」(2016年)から一転、本作は監督本来のインディペンデントな作家性に回帰した問題提起的な作品と見なされ、そのことが賛否路両論の物議をかもしている。

すなわち、「君の名は。」以前の新海誠監督の持ち味と目されていた、思春期の少年主人公のミニマムな内面の問題とSF・ファンタジー仕立ての世界の問題とを直結させる「セカイ系」的な作劇の復活という側面だ。このあたりは、予想外のメジャーヒットによって旧来のファンから寄せられた「こんな大衆に魂を売った作品は俺たちの新海誠じゃない」という声に応え、前作の成功によって得たフリーハンドを使って、コアファン向けのセルフオマージュに振り切ったと見ることもできるだろう(そのようなコアファン型の見方としては、公開直後にSNS上で話題になったブログ記事が代表的だ。いっぽうで評論家の宇野常寛などは、そうした見方を痛烈に批判している)。

ただし、本連載の関心における注目点は、やはり天気というモチーフを通じて、今年5~6月公開の他作品(「プロメア」「海獣の子供」「きみ波」)にも通底する「人為」と「天意」の問題を掘り下げたことに尽きる。

「君の名は。」が東日本大震災の記憶に依拠し、地方での千年単位での大規模被災を描くものだったのに対して、「天気の子」はより常態化した気象異常を描いた。とりわけそれは2016年に起きた熊本大地震や、北海道や岩手に甚大な被害をもたらした台風10号の水害、そして2018年の西日本豪雨やつい先日の九州豪雨など、前作公開の前後に日本人が経験するようになった自然災害の頻発の経験を想起させるものだった。

その意味において、たしかに本作は多くの日本人が抱く「2016年以後の世界」のリアリティに併走する「国民映画」としての問題設定の更新を企図した作品だったと言えるだろう。

 

つまりは、新海監督が随所で「『君の名は。』で怒った人をもっと怒らせたい」と公言しているのとは裏腹に、「君の名は。」に寄せられた主要な批判に対して、メジャー作品としてのエンターテインメント性を損なわない範囲で、実は神経質なまでの応答が試みられている。

それは地方で生きる三葉たちの身に起きた被災を東京人である瀧の視点での感動ポルノの具とし、時間軸の操作で「なかったこと」にした……という、前作の批判的な受け止め方への反転だ。

「雨」のアニメイトと「光」の叙情の葛藤

順を追って見ていこう。まず、「君の名は。」の主人公ペアである瀧と三葉の関係とは逆に、伊豆諸島にある神津島(行政区分上は東京都にあたるが)から上京した森嶋帆高と、都内に暮らす天野陽菜というように、カップルの出身関係が入れ替えられている。

2人はともに、それぞれの境遇で空の雲間から差し込む「光」を目指すという経験で結びつけられていくことが、冒頭から示唆されている。

帆高にとってのそれは、新海監督の初期の集大成とされる「秒速5センチメートル」(2007年)内の第2話「コスモナウト」で描かれた種子島の風景を自己参照したかのような、離島から望む海の向こうへの導きとして描かれている。対して、陽菜にとっては、彼女が死にゆく母親を見舞った病室の窓から代々木の廃ビルの屋上神社に降りた「光の水たまり」を目撃するというシチュエーションで、彼女が雲の上の彼岸の巫女としての「晴れ女」に選ばれる必然に結びつけられている。

この背景美術と撮影エフェクトに依拠した「光」は、アニメーション映像の作家としての新海誠の何よりの武器として多くの評者に取り沙汰されてきた特徴だ。だから本作の表現面での挑戦は、新海監督が自らのアイデンティティに近い技法として突き詰めてきた表現を、物語上の主題としてとらえ直していくことだと見ることもできるだろう。

他方、その光の表現を「希求すべきもの」に仕立て上げている状況設定が、本作のメインモチーフである曇天と豪雨の表現だ。日本の観測史上にない異常な大雨の夏として描かれる作中での降雨の有様は、平成の後半あたりからいつの間にか定着した「ゲリラ豪雨」の実感に立脚しつつ、その猛威をダイナミックな動きや質感の駆使によって超自然現象として誇張することで、強烈にアニメイトしている。

たとえば、陽菜が母の病室の窓で目撃する、雨粒として落下してくる「空の魚」たちの生命感ある運動や、東京湾に入港する客船上で突如として上空に莫大な透明なスライムのような雨の塊が局所的に発生し、プールをひっくり返したような水量が一気に落下してくる豪雨によって帆高が船から落ちかけるといったシークエンスで、冒頭から示されていたものだ。

こうしたダイナミックな擬生命性を志向する自然物の動かし方は、どちらかというと静的な風景の叙情に映像の力点があった従来の新海作品の映像づくりのレパートリーからすると新機軸で、むしろ宮崎駿が積み重ねてきた、風や空や水の演技によるファンタジー表現の系譜に近い。

前作「君の名は。」の達成によって多くの人々が共有するようになった「宮崎駿から新海誠へ」という作家名で代表される時代感覚の移行は、高瀬康司が編じた「アニメ制作者たちの方法──21世紀のアニメ表現論入門」によれば、技法論的にはアニメーションの制作工程にデジタル技術が介するようになったことによって、今世紀に入ってからの日本アニメ全体の進歩の比重が「作画」から「撮影・編集」に相対的に移行した状況をも象徴しているのだという。

その意味で、「天気の子」の映像モチーフの基軸をなす「雨」と晴れ間の「光」の相克には、まさに20世紀に培われた宮崎駿的な動きによるアニメイトの快楽と、21世紀に発展した新海誠的な編集・撮影のフェティッシュによる叙情との対立を弁証法的に止揚し、技法上の必然をテーマやストーリーの次元に浮上させて試みていく構造が見受けられる。

この主題化の図式は、ちょうど前回取り上げた湯浅政明監督の「きみ波」やその前作「夜明け告げるルーのうた」(2017年)における水や火の擬生命的なアニメイトにも通じる特徴だが、グラフィカルな湯浅アニメの絵柄をいかに脚本上の人為に即した感情誘導(ドラマツルギー)の波に乗って動かすかに力点のある(つまり宮崎駿的なアニメイトの快楽のかなり直接的な継承と消化を試みている)「ルー」「きみ波」の表現に対して、本作では新海流の非人間的でフォトリアルな背景美術の質感をベースにしつつ、いかに宮崎的・ジブリ的な躍動感ある自然物の動きをなじませるかという主従関係において試みられている点に、大きなアプローチの違いがある。

このあたりは、かつて新海が真っ向からジブリ・エピゴーネン型のジュヴナイル・ファンタジーに挑んだ「星を追う子ども」(2011年)での試行錯誤を通過し、宮崎駿的なるものの換骨奪胎が奏功するようになった部分だと言えるだろう。

こうして「天空のラピュタ」(1986年)を想起させる空と雲に隠された世界のスペクタクルや、「パンダコパンダ」(1972年)「崖の上のポニョ」(2008年)に近い水の擬生命的なアニメイトをテジタル時代の現代的なエフェクトで動かし直し、東京の風景に接合してみせることで、本作の世界観表現の基盤をなす「天意」のファンタジーが成立しているわけである。

おすすめ記事