「カラハイ」「ゆめりあ」そして「アイマス」に流れるナムコの血統【中里キリの“2.5次元”アイドルヒストリア 第4回】

今や定番ジャンルとしてアニメ、ゲームなどで数多くの「アイドル作品」が作られ、またアイドルを演じるキャストによるCDリリースやリアルイベントも毎月のように行われている昨今。

そんな2次元と3次元を自在に行き来する「2.5次元」なアイドルたちは、どのように生まれ、そしてどのようにシーンを形成していったのか。昭和、平成、令和と3つの時代の2.5次元アイドルを見つめ続けたライター・中里キリが、その歴史をまとめる人気連載、第4回がスタート!

アイドルコンテンツ好き同士での飲み会トークネタの定番のひとつに、俺プロデュースによる2.5次元アイドル理想フェス構成というものがあります。開幕は「THE IDOLM@STER(曲名)」だろうとか。いやアイマスなら「The world is all one !!」がふさわしいとか。アイドルたちが集って歌う約束の歌は「SUNNY DAY SONG」に決まっているだろうとか。当然すぐに殴り合いが始まるわけですが(笑)、そんなオタクたちの妄想を現実にしたようなライブが2019年10月に開催された「バンダイナムコエンターテインメントフェスティバル」でした。会場はなんと、東京ドーム2DAYSです。

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2日間に渡ったライブの中でも、特にDAY2はアイドルコンテンツ色が非常に強く、「アイドルマスター」シリーズ、「ラブライブ! サンシャイン!!」、そして「アイカツ!」シリーズがひとつの会場に集う歴史的な日となりました。会場はもちろん、見たことがないぐらいの超満員のファンで埋まりました。ほかにも強いアイドルIPを持つ会社はたくさんありますが、単独でこのオールスター感を出せるのはバンダイナムコグループだけだと思います。

さて、社名を見ればわかる通り、この会社は、かつての「バンダイ」と「ナムコ」がひとつになった企業です。2000年代は「ファイナルファンタジー」のスクウェアと「ドラゴンクエスト」のエニックスがひとつの会社になったりと、ゲーム会社の超大型合併が相次いだ時代でした。その要因としては、超高性能化したゲームハードのソフト開発費が高騰を続けており、開発企業の規模の大きさ、スケールメリットが極めて重要な時期だったことがあげられるでしょう。ゲーム業界で企業合併が相次いだその時代は、ソーシャルゲームやアプリゲームによって業界構造が激変する前夜の時期でもありました。

企業合併のタイミングをいつに定めるかは考え方にもよりますが、2005年6月25日の株式会社ナムコ・第50回定時株主総会で、ナムコとバンダイの経営統合の議案は可決承認されました。2005年7月に稼働スタートしたアーケード版「アイドルマスター」はナムコという企業が合併前に残した最後の種子とも言えると思います。

株式会社ナムコは1955年、「有限会社中村製作所」として東京・池上にて創業しました。アミューズメント事業のスタートは、デパートの屋上に設置した木馬2台だったそうです。1970年代にビデオゲーム事業に進出した同社は、1977年に社名を株式会社ナムコに改めます。その後ナムコは1979年の「ギャラクシアン」を皮切りに、「パックマン」(1980)、「ゼビウス」(1983)、「ドルアーガの塔」(1984)など、アーケードゲームにおいて伝説的ヒットの数々を飛ばしました。この黄金の時代のナムコに憧れた若者たちが、やがて「アイドルマスター」を含むタイトルの数々を生み出す推進力となるのです。

ひとつのタイトルが生まれるまでには、その前段階となるステップがあるものです。育成ゲームとしての「アイドルマスター」の土台のひとつになったのが、同社のアーケードクイズゲームの文脈でした。当時のゲームセンターに通っていた人なら、1996年にリリースされた「子育てクイズ マイエンジェル」が記憶に残っている人は多いのではないでしょうか。同作は人気シリーズとして歴史を重ねますが、2003年に少しアプローチの違うタイトルが登場します。それがクイズゲームに恋愛シミュレーションゲームの要素を取りいれた「青春クイズカラフルハイスクール」でした。同作のキャラクターデザインは「アイドルマスター」と同じく窪岡俊之さんが担当しています。

「アイドルマスター」を構成する大きな要素である3Dモデルについても、1993年に「リッジレーサー」、1994年にアーケードで「鉄拳」をリリースしたナムコには大きな技術的蓄積がありました。いわゆる美少女を売りにしたジャンルでは、1996年にリリースされた「ダンシングアイ」の存在も大きいでしょう。そして、「アイドルマスター」にプロジェクトとしてつながっていくのが、2003年にPlayStation 2でリリースされた「ゆめりあ」です。3DCGで美少女たちを描きだす試みは90年代から繰り返されてきましたが、3Dで2Dを再現するのではなく、3Dならではの美しさを追求した点で「ゆめりあ」は画期的だったと思います。ファンサービスの一環としてリリースされたPCベンチマークソフト「ゆめりあベンチマーク」はある意味、本編以上に有名になりました。

1997年にナムコ・ワンダーエッグ2に設置された「ザ・スタアオーディション」というタイトルも押さえておきたいところです。ナムコがアミューズ、ホリプロ、ニッポン放送と協力した同タイトルはアミューズメント施設でタレントオーディションが受けられるという内容で、妻夫木聡さん、市川由衣さん、塩谷瞬さんらビッグネームを輩出しています。同作は後にアーケードタイトル「スタアオーディション」とし全国展開もされました。アイマスと直接的なつながりはないタイトルですが、筐体によるオーディションというテーマ、ミニゲームによる適正審査などに連続性を見出せるかもしれません。

それらの蓄積を経て、アーケード版「アイドルマスター」は誕生します。アーケード版、なかでも最初期のバージョンは、そのシビアなゲームバランスが大きな特徴でした。全国のゲームセンターをオンラインで結んだオーディションシステムは非常に駆け引きの要素が強く、対人オーディションで一敗した時点でトップへの道が断たれることもしばしばでした。こうした対人ゲームとしての対戦要素の重視は、アーケード版「アイドルマスター」初代プロデューサー・小山順一朗さんによるものだと言われています。

その判断がなければ、おそらく今のアイドルコンテンツブームは存在していません。「アイドルマスター」も「ラブライブ!」も存在しなかったあの頃、ゲームセンターの主役はセガの「セガネットワーク対戦麻雀MJ」やコナミの「麻雀格闘倶楽部」に代表されるオンライン麻雀ゲームであり、ぬいぐるみやフィギュアを手に入れるプライズゲームでした。ビデオゲームの退潮がささやかれる時代に大型筐体でアイドルゲームをプレイする心理的障壁は、今からは想像できないほど高かったのです。そうした時代に、自分たちがプレイしているゲームが(“やりこみプレイヤーにとっては”)表層からは想像できないぐらいシビアな地獄の戦場であり、自分はアイドルとともにそこを勝ち抜いたアイドルマスターなのだという誇りは、背中を支えてくれるもののひとつだったと思います。

もうひとつ、忘れてはならない小山さんの置き土産として、「メール☆プリーズ」というシステムがありました。それはプロデュース中のアイドルからプレイの内容を反映したメールが携帯電話あてに届くというもので、ゲームセンターに行かなければ担当アイドルに会えなかった時代に、常にアイドルの存在を身近に感じさせてくれるものでした。このシステムをキャバクラ嬢の営業メールにたとえた小山さんがかなり怒られたらしい……といった笑い話もありましたが、小山さんの軽妙な人柄と愛すべきゲームバカとしての一面が「アイドルマスター」という作品に大きな影響を残したことは間違いありません。

小山プロデューサーは「アイドルマスター」の担当を外れたあと、ほどなくして「機動戦士ガンダム 戦場の絆」でメガヒットを飛ばすことになります。偉大な初代プロデューサーは、「アイドルマスター」765プロダクションの初代社長“高木順一朗”の名前にもその足跡を残しています。

アーケード版「アイドルマスター」の話は次回でひと区切り。次回は、音楽とライブという、2.5次元コンテンツとしての核心に迫っていきます。


(文/中里キリ)

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